文化的に日本に近くて幸せな国々

ホフステードの文化的価値観のうち放縦vs抑制(IVR: Indulgence vs Restraint)は、余暇を大切にし、自分の思い通り暮らせていて、非常に幸せと感じる人々が多い国々で高い点数を取れる仕組みになっている。

日本のIVR指数は42で、世界平均の45に及ばない。

世界には日本より幸せな国々はたくさんあるけれど、北欧のように文化的価値観があらゆる面でかけ離れているような国々は余り参考にならない。文化は親から子へと伝達されるから、私たちの価値観をあらゆる面で変えることなんて、一世代や二世代の時間軸ではとてもできるとは思えないからだ。

では、文化的価値観が日本に比較的近くて、日本よりずっと幸せな国にはどんな国があるのだろう。

ホフステードの文化的価値観のうち、IVR指標を除く5次元空間に距離の概念を導入して、国々の文化的距離を定義することができる(http://mkitaoka.biz/?p=208参照)。

日本からのこの文化的距離と幸せ度(IVR)を使って地図を作ると以下となる(全体はhttp://mkitaoka.biz/dl/cdist2ivr.png参照)。

比較的距離が近くて幸せ度が5割も高い国にはスイスとオーストリアがある。

最近、アドラー心理学がテレビでも紹介されているが、アドラーはオーストリア人であり、彼の哲学は文化的距離が日本に近いオーストリアの文化的価値観に基づいている。彼の幸せに関する考え方は、日本人に受け入れられやすいかも知れない。

ちなみに、世界価値観調査の結果を使ってIVRは以下の表の基準で算出される。

世界価値観調査の質問項目

IVRの算出方法

全体的に言って、現在、あなたは幸せだと思いますか、それともそうは思いませんか

非常に幸せ、やや幸せ、あまり幸せではない、全く幸せではない

「非常に幸せ」を選択した割合

人生は自分の思い通りに動かすことができるという人もいれば、どんなにやってみても自分の人生は変えられないという人もいます。あなたは、ご自分の人生をどの程度自由に動かすことができると思いますか。

1「人生は全く自由にならない」から10「人生は全く自由になる」までの数字で当てはまるものをお答えください

国別の平均値

次にあげるそれぞれが、あなたの生活にとってどの程度重要かをお知らせください:「家族」「友人・知人」「余暇時間」「政治」「仕事」「宗教」「他者への奉仕」

非常に重要、やや重要、あまり重要ではない、全く重要でない

「余暇時間」について「非常に重要」を選んだ割合

 

戸山高校卒業50周年文集向けに、『異文化対応力』の紹介記事を書きました

「食事とはお祭り」

2017-01-30北岡正治

フランス人の顔を見て日本の友人を思い出す。そんなことが度々あった。顔かたちや肌、髪の色の違いにも係わらず、どこかそっくりと感じる。日本とフランスは、とても違うようでいて、実は同じなのかもしれない。人はみな同じ?いや、あなたとわたしは違う。私たちは何が違っていて、何が同じなのだろう。

きっかけはフランス留学

人々の多様性を意識しだしたのは、たぶん戸山高校でのことだ。学生、先生を問わず多種多様な人々がいた。そして、そうした人々とどう向き合っていけば良いのだろうと。

高校2年で第二外国語にフランス語を選択し、大学ではその延長上のちょっとした偶然でフランス国費留学の切符を手にした。学部を二年間休学してフランスで暮らし、多くの友人を作った。そこで抱いたのが冒頭の疑問だ。そして、その答えを求めることが、それからずっと続いている。もうすぐ半世紀だ。「私たちは何が違っていて、何が同じなのだろう」

留学から帰って会社に入り、1990年代多くの英米人と仕事をし、2005年から7年間は中国で現地子会社の経営を担当した。そして、多様性に対する疑問に、ビジネスの観点が加わった。

「さまざまな社会集団がある中で、我々のビジネス目標を達成するには、自らをどう組織化すれば良いのだろう」

人々を分類する方法には、国民性のほかに、血液型とか、星座とか、誕生日とか、エニアグラムとか、いろいろな試みがある。でも、例えば血液型。A型、B型、AB型、O型とあり、人々の性格をそう分類できるような気もする。でも、自分はどれにも当てはまるように思えた。それに、年齢とともに変わっていく。これらは結局、人々の分類ではなく、人々のライフスタイルの大まかな分類なのだろう。エニアグラムがそうであるように、自分が無意識に選んでいたライフスタイルは、その拘りが何かを問い続けると、拘りが萎んでライフスタイルが少し変化する。こうした巷の分類論は当り外れがあるし、変化するし、大まかすぎて、ビジネスとか真剣な用途には使えないように思える。

国民性はもっと安定していて、はるかに複雑だ。7年間の中国の会社経営では、国民性の違いにもっと深く取り組まざるを得なかった。こうした、フランス、アメリカ、中国での経験をベースにして、放送大学文京キャンパスで「海外ビジネス展開と異文化対応力」という講座を毎年開講している。

世界の多様性を、ビジネスに応用する話だ。しかし、受講者からは、「この話は日常に使える」と言われる。フランスや中国の文化的価値観を考えていくと、私たち自身の文化的価値観が見えてくる。「日本人とは何なのか」と問いかけ始めるのだ。そして、文化的価値観でも海外に学ぶことがいろいろあるのだと。

日本ではあまり知られていないが、今では、世界100ヶ国以上の国民性が調べられ数値化されている。その内、幸せに関係する指標で、日本は50番目くらいの位置にいる。経済的に豊かなのに、フィリピンやザンビアと同じ点数だ。

それでは、人々がより幸せを感じるように海外で大切にされているのは何なのか。私たちの文化的価値観で、私たちを幸せから遠ざけているのは何なのか。「人々の幸せ」の観点から日本の文化的価値観を見直すとどうなるか。放送大学での私の講座のベースとなっている最近の学術的成果や私の海外経験からたどり着いた気づきなどを以下にまとめてみた。

人々の行動を理解する4つの切り口

出発点は、社会的動物である人間が誰しも持っている「心の理論」なのだろう。それは、私たちが中学・高校時代に心の中に急速に発達させ続けた「人間本性に関する暗黙の理論――行動は思考や感情から生じるという理論は、私たちが人びとについて考える、考え方そのもののなかに組み込まれている」。人の行動からその人の心を判断するこの考えは、きわめて根強く私たちの心に潜んでいる。でも、結婚して子供ができたとき、あるいは、会社で課長になったとき、自分の考え方の変化に私たちは気づく。人の行動は、その人の心だけではなく環境(”立場”はその一つ)に依存しているのだ。そして今では、これを更に進め、人の行動は、「人間性」、「文化」、「パーソナリティ」、そして「環境」という4つの切り口に分けて捉えるとよく理解できる と考えられている。

人間性は世界共通だし、パーソナリティは平均を取れば国々に大きな差はないだろう。すると、その国の幸せ度は、その文化と環境に依存していることになる。日本は経済的に豊かな環境であるのに、なぜ幸せ度が低迷しているのか?それはきっと、幸せを遠ざける文化的要因があるはずなのである。

まず、日本の文化的価値観(=国民性)の特徴とは何かから見ていこう。

国民性における日本の特徴

海外に暮らして、国々の文化の違いに私たちは驚く。オランダ人のヘールト・ホフステードは、若いころインドネシアとイギリスを旅し、これを経験し、エンジニアの仕事に就きながら大学に通い社会心理学を学んだ。そして1970年代、IBMで各国社員の意識調査をする機会に恵まれ、調査結果を統計的に分析し、世界50ヶ国以上の国々の国民性を4次元の数値で表すことに成功した。今では、世界111ヶ国の国民性が6次元の数値として公開されている。

この6つの次元軸にはそれぞれ名前が付けられている。

  1. PDI(Power Distance、権力の格差): 人々の不平等と言う問題に対する社会の解答に関係
  2. IDV(Individualism vs Collectivism、個人主義vs集団主義): 一次集団における個人の位置づけに関係。
  3. MAS(Masculinity vs Femininity、男性らしさvs女性らしさ): 性別役割分担に関係。
  4. UAI(Uncertainty Avoidance、不確実性回避): 未知の未来に対する社会のストレス・レベルに関係。
  5. LTO(Long Term vs Short Term Orientation、長期志向vs短期志向): 人々が時間軸上のどこに重点を置いているか。将来か、過去と今か。
  6. IVR(Indulgence vs Restraint、放縦vs抑制): 生活を楽しむ上での人々の欲求を満たすのか抑制するのかに関係。

例えば、日本の国民性を6次元のデカルト座標で表現すると(54,46,95,92,88,42)であり、フランスと中国はそれぞれ(68,71,43,86,63,48)と(80,20,66,30,87,24)だ。これだけでは意味不明だが、各次元ごとの差をとると少し理解しやすくなる。

フランスと日本の違いは、(14,25,-52,-6,-25,6)であり、中国との違いは(26,-26,-29,-62,-1,-18)となる。これらそれぞれの数値の内で最も大きいものは52と62だ。そしてこれは日本が、フランスとは3番目のMAS(男性らしさvs女性らしさ)の軸で、中国とは4番目のUAI(不確実性回避)の軸でそれぞれ最も大きな違いがあることを示している。レーダーチャートでは図のようなる。フランスや中国にくらべ日本が右下に大きく膨らんでいることに注目してほしい。国民性のレーダーチャートでは、外側に膨らんだ方が良いと言うわけではない。世界平均=中庸は中ぐらいの六角形になり、膨らんでいたり萎んでいるのは中庸からの逸脱なのである。

少し詳しく見てみよう。

MAS(男性らしさvs女性らしさ)軸で数値が小さいフランスは、男性と女性で価値観に差があまり見られないことを示している。フランスでは、男の子も女の子も一緒に遊ぶし、男性が家事をすることにも、主夫になることにもあまり抵抗感がない。これに対して日本は、男性と女性の価値観に世界でもっとも大きな差がある社会なのである。

仕事と家庭はどちらも大切だが、あえて順位をつけるならどちらなのか?世界には様々な文化があるが、日本は飛び抜けて仕事を優先する人々が多い文化だ。留学したフランスで、家庭の食事に関して尋ねたとき、フランス人が答えた一言「食事とはお祭り」がその後ずっと忘れられない。そう、フランス人にとって毎日の食事はお祭りなのだ。だから家族みんなで準備する。料理を作る人だけではない。参加する人もみな、刺激の強いタバコやコーヒーをいったん我慢し、間食を控えお腹をすかして待っている。食事は仕事の前の「腹ごしらえ」ではない。それ自体が大切な 家族のイベント なのである。フランスは、仕事より家庭を重視する人々が多い。その家庭の中心が、家族で囲む食卓なのである。

日本人は世界平均をはるかに越えて仕事を重視する。残業は当たり前だ。でも、これは日本を離れると通用しない。仕事を重視する中国でも、定時になると奥さんから電話がかかってきて、仕事モードが家庭モードに切り替わることはよくあることだ。逆カエルコールだ。そして、これを基本的に尊重しないと、いろいろな問題のタネになる。家族を味方につけることも、中国の経営で大事なことなのだ。海外の会社では、残業なしで業務がまわるように組織を設計しなければならない。

ホフステードが最後に追加したIVR(放縦vs抑制)の軸は、その国の人々が結局幸せなのかどうかを調べたかったのだろう。その国の国民性自体を評価する尺度なのだ。フランスはこの軸で、日本より6ポイント高い。「食事とはお祭り」、暮らし方を日々少し変えるだけで幸せに近くなるのかもしれない。

私が日本文化を見直すきっかけとなったのがこの一言だ。

中国とのUAI(不確実性回避)軸の差を示す典型は、交差点だ。車が通らなくても信号を待つ日本に対して、中国の交差点はどこも無秩序の極みだ。ただ、まったく守らないわけではない。信号が黄色になると、タクシーの運転手は急いで渡ろうとはしない。きちんと止まる。信号の変化のタイミングが、人や自転車や車が飛び出してくる最も危険な瞬間であることを知っているからだ。中国人にルールを守らせたいのなら、守らなかったときに本人がどうなるかをよく分からせることだ。破ると自分に不利になるような制度のもとでは、そのルールは日本以上によく守られる。

UAI(不確実性回避)の数値が小さいことでは、英国も中国に引けを取らない。ほんとうに必要なルールは守るけれど、それ以外のルールが必要とは思っていないし守られるとは限らない。これに対してUAI指標が世界トップクラスの日本では日々刻々とルールが追加される。電車のなかで携帯電話で話すのを、いつ誰が禁止したのだろう。英国人は「なぜダメなの」と訊くし、上海の地下鉄車内で携帯で話すのはごく普通のことだ。大音響でお経を流す人までいる。でも、誰も文句を言わない。この広い中国、とにかく、いろんな人がいる。赤の他人と係わってもろくなことがない。そもそもルールどころか、言葉さえ通じないこともしばしばだ。不確実性は避けられない現実であり、回避するすべはない。むしろいろいろなサクセス・ストーリに自分も挑戦したい。彼らは日々こう思いながら暮らしているのだ。

人に迷惑をかけてはいけないというルールは中国にはない。迷惑という言葉自体が中国にはない。それは迷惑という観念がないことを意味し、説明に苦労する。友人のためにいろいろと便宜を図ることは、友情を大切にする中国では美徳だ。当たり前のことだし、迷惑をかけられたなどとは決して思わない。面倒だったかもしれないが、迷惑だったとは感じない。そう、面倒だったとしても、友人を非難するような情動は道徳的に抑制されているのだ。

「迷惑」を日常的に意識する文化を私は日本以外に知らない。和仏辞典で調べると、agacerが出てくるが、これは、「苦しめられる」ぐらいの状況で使う言葉だ。限度をはるかに越える迷惑は問題にしてもよいが、普段は我慢すべきものなのだ。和英辞典ではannoyになるが、これもフランス語のagacerと同様、毎日使うような言葉ではない。

「迷惑をかける」とか、「迷惑に感じる」とかは中国にはないが、「迷惑をかけない」ということを「人を怒らせない」ということと捉えれば中国にもある。面子だ。中国の面子という観念は、日本のものとはだいぶ違う。ずっと広いし深刻だ。人の面子をつぶせば、「信義にもとる」と社会的非難を浴びかねない。場合によっては、生活基盤を失いかねないほど深刻なのだ。

中国で「人の面子を大切にする」ということは、「その人の気持ちを害さないようにする」こととほぼ同義だ。これは簡単なようでとても難しい。夫婦間で難しく感じている方々も多いのではないか。相手がどんな地雷をどこに仕掛けているかなど、なかなか想像できるものではない。だから、これを社会一般のルールにするのには無理がある。相手限定ということになる。自分にとって大切な人々や社会的影響力のある人々、そうした人々の面子は尊重しなければならない。家族や上司、政府幹部などがこれにあたる。部下も状況によっては該当する。例えば、衆目環視のもとで部下を叱咤激励してはならない。それは部下の面子をつぶすことであり、会社を辞めろという意味に受け取られる。

中国社会で暮らすということは、まわりの人々を分類し、面子を立てるべき人々の気持ちを日々察しながら行動することなのである。これは、中国人にとっても精神的に疲れる話だ。これが上手な人は中国では尊敬されるし、昇進が早い。それに比べると、迷惑をかけなければ取り敢えず暮らしていける日本社会は、むしろ気が楽なのだ。人間関係に無頓着でもちゃんと生きて行ける。気楽とも言えるが、それで良いのだろうか?そんな疑問が残るのが日本社会でもあるのだ。この件は、後でもう一度考えてみたい。

中国の「面子」は会社経営の役に立つ。地方政府と共同で、テレビや新聞、インターネットなどを使って会社を宣伝する。すると、「あの家の息子は良い会社に入った」となる。そして、社員は気持ちがいいし、その面子と同時に会社への帰属意識も上り、よく仕事をしてくれる。

ただ、どんな社会規範でも表と裏がある。行き過ぎに注意しなければならない。

日々刻々とルールを強化する日本を、「日本には優れた一般の人々が大勢いて、いつだって一生懸命。日本は健全な社会だと実感します」と誉めてくれる外国人がいる。とても癒される。でも一方で、日本には内田樹氏が言うように「不自然なほどに態度の大きな人間」が実に多い。怒るとこわそうで偉そうな人々だ。彼らはそう振る舞うことで、自分に有利な空気を作る。議論の内容よりも「そんなことは百も承知よ」と言う雰囲気を作り、物事の判断基準が自分にあると周囲に認めさせる作戦なのだ。

むかし「地震、雷、火事、おやじ」と言われ、怒りっぽいおやじは日本で怖いものの一つだった。でも今や、家庭での権威は失墜し見る影もない。しかし、会社や社会で権威を与えると、元気を取り戻す怒りっぽいおやじがまだ多い。

「迷惑」も「空気」も「人を怒らせたくない」という私たちの素朴な心の上に作られた日本特有のフィクションなのだ。

一方、面子を大切にする中国では、不自然なほど自尊心が大きな人々がいて人々を困らせる。自尊心自体は世界共通だが、その扱い方は文化によって異なる。日本人の場合、自尊心は自制的なのが普通だ。それは周りに迷惑をかけてはならないと常日頃思っていることの裏返しだ。しかし、中国ではそのような歯止めがないから、自尊心は大きめが普通になる。そして、大き過ぎる自尊心でも周りから尊重されるから、ほうっておくと際限なく肥大化しうる。そうした人が日本よりも多い。そして、困る事態になると、「梯子を渡して少しずつ下りてもらう」のだという。こんなところにも文化の蓄積がある。

有能な社員の気持ちを大切にすること、会社に誇らしさを感じさせること、そうしたことが、中国では経営の重要課題である。反対に、「中国人社員をやめさせる方法はいくらでもある。例えば、面子をつぶせばよい」と中国の悪友に教えられた。善し悪しは別として面子は、中国社会で大切な観念なのである。

日本の「迷惑」も中国の「面子」も、「人を怒らせたくない」という東アジアの人々になぜか共通する強い感情に則して作られたルールなのだと思う。そう言えば、朝鮮文化の(ハン)も、怒りの感情を歴史を千年も遡ってふつふつとたぎらせるというから恐ろしい。もしかすると私たち東アジアの人々は沸点の低い人種なのかもしれない。仏教が伝わって2,000年も経つのに、「怒り」の情動を文化的にまだまだ上手に抑制しきれていない。いったいいつになったら私たちの社会は大人になるのだろう。

UAI(不確実性回避)指標が大きいことで有名なフランスでも、たしかに怒る人はいる。でも、そんな怒っている人に対して使える便利な常套句がある。それは、C’est pas grave!だ。「事態はそんなに深刻じゃないわ」の意味で、言外に「怒るようなことじゃないのよ」と匂わせる。何度も必要なだけ繰り返して使える。そう何度も言われると、「それもそうだ」と少し冷静になる。

「迷惑」も「面子」も「恨」も、条件が揃えば怒ってもよいというあぶないルールだ。百歩譲って怒りを許すとしても、それは、「今、現在、深刻なとき限定」にして欲しい。ちょっとした違和感とか、過去に遡ってとか、この国のためとか、地雷を踏まれたためとか、怒るネタを増やさないで欲しい。私たちお互いの幸せのために。「今、現在、深刻」でないのなら、感情を抜きにして冷静なときにお話しすれば良いのだから。

日本の国民性の最大の特徴は、MAS(男性らしさvs女性らしさ)とUAI(不確実性回避)の二つの軸で世界トップクラスに位置していることである。男女の役割や社会規範に対するこの二つの拘りは、ともに日本に経済的繁栄をもたらした。しかし、人々に幸福をもたらしたとは言えない。海外で仕事をするとき、最も邪魔をするのは、相手国の文化の問題ではない。長期に根強く残る問題の背後には、世界基準で明らかに極端なレベルにある日本人のこの二つの拘りを疑ってみるとよい。そして、これは海外に限らないのである。このことについては、あとでまたもう少しふれよう。

人間性

ホフステードの研究成果は、世界の国々の文化的価値観の違いがどの辺りにあるかを6次元空間にプロットして明らかにしたが、人々の行動の背景にある心の動きを科学的に明らかにしたわけではない。

世界の人々に共通する心の動き、つまり人間性とは何かが明確になってきたのは、21世紀に入ってからのことだ。そしてこの飛躍的な進歩を支えた人々の多くは私たちと同年代の哲学者くずれだ。頭のなかで堂々巡りしがちな哲学では、人間とは何かに正確に答えられない。そのため、人の心を科学的に研究する心理学や、ゴリラやチンパンジーの心を研究する進化生物学に、この人々はずっと答えを求め続けてきたのである。

ロビン・ダンバーは霊長類を研究し、そのムレの大きさが、脳の新皮質比と比例することを見いだした。そして、脳拡大の究極要因は集団サイズ拡大だとする社会脳仮説を提唱した。大きな集団の方が、生き残る確率が大きくなる。その大きな集団を維持するには、人間関係が安定していた方が有利だ。そして人間関係を安定化するには、脳へのいろいろな機能追加が有効だった。その結果、脳は段々大きくなった と。

この理論は、二つのことを言っている。数億年にわたる進化の歴史の大部分を共有するヒトと霊長類は、脳の多くの機能を共有している。そして、その蓄積の上で数100万年の時間をかけて、いくつかの固有の機能がヒトに加わったと。

『しあわせ仮説』を著したジョナサン・ハイトは、このことを「心とは、象にのる象使いである」と表現している。「人は合理的な動物ではなく、感情的な動物の上に”小さな理性“が乗っているだけの動物だ」とも。

人間の道徳観は、カントが言うような理性ではなく、この感情的な動物の部分に存在し、その多くは霊長類と共通している。そう今では考えられている。ハイトによると、道徳がらみの情動は非常に多く、文化を越えて共有されている。そしてそれらを相関関係で括ると以下の5種になる:

  1. 傷つけないこと 他人に苦痛を感じさせたくない。共感、思いやり
  2. 公平・互恵   そんなのずるいよと言う感覚、公平さを好む感覚
  3. 内集団への忠誠 自分の属する集団の義務遂行を大切に思う
  4. 権威への敬意 社会秩序のために上下関係などを尊重
  5. 神聖さ・純粋さ 肉体的・精神的な純潔を求める

最初の4つは、直感的に理解できる。最後の「神聖さ」は、その逆が「嫌悪」 だと知れば理解されるだろう。そしてこれら5種の感情が、どれも集団を強くすること、大きくすることに係わっていることも理解しやすいだろう。神聖さと集団の関係は少し分かりにくいかもしれない。しかし、文化の違いに嫌悪感を感じる時があることを思い出してほしい。他集団に対して嫌悪感を感じることが、自分の属する集団を守るために、進化論的な時間軸を通して有効だったのだ。

これら5種の道徳がらみの情動は、その多くが人どころか霊長類にも共通に見られるのである。それでは、この道徳基盤の上にのった新たな機能「小さな理性」とは、いったい何なのだろう。

それは、「強化された心の理論=省察力」だとダンバーは考えている。言語もその延長上に発達した と。

自分の心を省み、他者の感情や信念にも考えを巡らせる能力(=心の理論)は、サルや鳥類にも見られるが、これを再帰的にできるのは、チンパンジーとヒトだけだ。しかもヒトは成人になると、この能力がチンパンジーよりもはるかに発達する。例えば、以下のようにだ:

「私は彼女が好きだ」(1回):サルや鳥類でも
「彼女は私が好きだ」(2回):チンパンジーとヒトの4~5歳児
「彼は私が彼を好きだと勘違いしている」(3回):成人。この文の意味を理解できなければ成人とは言えない。
「彼女が僕を好きだと僕が勘違いしていると彼女が思っているが、これは僕の作戦だ」(4回):段々人間的になる。

ほとんどの成人は、5回まで再帰的に考えられる。この「強化された心の理論=省察力」で、成人は目に見えないものに気づき、考え、その結果で行動を選択できるのだ。

国民性における東アジアの特徴

このすべての成人に共通する小さな理性と5種類の道徳感情を使うと、価値観の異なる人々が私たちとどう違っているのかをより正確に理解できる。

中国の国民性で当初理解に苦しむものとして、PDI(権力の格差)の大きさがある。日本はこの指標で54と中程度なのに対して、中国はこの指標が80ととても大きい。それは以下を意味している:

  • 力は正義に勝り、権力を握るものは常に正しく善良
  • 不平等は一貫していないと問題だ

例えば、権力を持てば持つほど、富を持つのは当然で、逆に持っていないのはおかしい、隠しているにきまっている。

そう考える中国では汚職が汚職を呼び、その額が桁違いなる。この指標の正しさは毎日のニュースを見れば明らかなのだ。そして、公平さを好む感覚が中国人には欠如しているのではないか といぶかしく思うのである。

PDI(権力の格差)の大きさは、私たちが生来持っている「不公平」という強い情動がないことを意味しない。それは、逆に、この「不公平」という強い情動を抑える何かをその文化が持っているということを意味するのである。同じ仕事なのに待遇に差があると強く「不公平」と感じるが、「差をつける基準」が明確であれば情動は抑制され、人間性としては不平等でも文化的には道徳的となる。努力すれば、差別される側から差別する側に移れるかもしれないという訳だ。こうした差をつける基準を考えることが中国人は好きだし得意だ。評価基準が明確になれば、人々はそれぞれに対策を考え、よく働くのである。不公平な社会であるからこそ、公平とは何かに人々は拘っているのである。

PDI(権力の格差)の大きな文化は、ユーラシア中央部に広く分布している。中国、ロシア、インド、アラブ諸国などが代表例だ。エマニュエル・トッドは、「共同体家族」という家族類型が、長い時間をかけてユーラシア全体に伝播したと考えている。権力の格差は、このユーラシアで優勢な共同体家族を基本とする国々で大きい。

日本や欧州はユーラシアの辺境に位置していたので、この伝播の範囲外となった。そして、辺境には、人類の原初的な家族類型が変わらずに残ったと言う。日本や欧州には、狩猟採集民だったころの比較的平等な社会の痕跡がまだ残っているのだろう。

大きな「権力の格差」は「男性らしさ」と同様、公平さを強く好む人間性と矛盾している文化的価値観だ。「不公平」だという情動とバランスさせる強力な何かがないと、そしてそれが人々を納得させるものでないと、社会の不安定要因となる。中国が「一つの中国」に拘るのはこれも一つの要因だ。強大な権力で統一を維持しないと、中国はバラバラになって何百年という単位で相争い始める。そして、人口は激減する。権力の大きな格差は、まだましだ。そう信じられている。

東アジアの国々と日本との国民性で大きく異なるもう一つの軸は、IDV(個人主義vs集団主義)だ。日本のIDV指標は46で世界平均の44とほぼ同じだ。PDI同様に、ここでも日本は世界の中庸にいるのだが、中国・韓国・台湾をはじめとするアジア諸国の平均は20でずっと低く、集団主義的だ。個人主義的な欧米の国々のIDVは高く、北西欧の平均は61だ。日本はその中間に位置している。

集団主義文化の人々は、自己について語るときWeを使いがちだ。家族の立場からものを考えるように育っている。彼らは家族という集団に生まれながらに属していて、この集団に忠誠を誓う限り生涯 安全を保証されると考えている。家族は、普通核家族ではなくもっと大きな単位だ。そして、もちろん、大人になれば集団のために働くし、老いた人々の面倒をみる。大人たちは、そうした集団の中での明確な役割と義務感を持っている。子どもたちはそうした大人たちを模範として成長し、集団主義的な価値観を持つことになる。この文化では、家族内での義務遂行や上下関係が尊重される。

個人主義文化の人々は、早くから自立するように育っていて、自己について語るときIを使うWeはまず使わない。親から自立している大人たちを模範として大人になり、自分も自立して家を離れていく。そして、老いた親の面倒をみることもない。家族内での義務遂行や上下関係の尊重よりも、人々の自由を大切にする文化なのである。

日本はこの辺りがはっきりしない。子どもを自立させたいのか、ずっと一緒に暮らしたいのか。

米国のナショナルジオグラフィック協会がIBMなどと共同で始めたGenographic projectは、世界中の人々に対して、彼らの祖先に関する情報を遺伝子解析により提供してくれる。$250かかるこのサービスによると、土佐藩の士族の血を引く私の母の母系祖先の2%は、なんとアメリカ原住民だ言う。アメリカ原住民も2万年前にはアジアにいて、祖先が私と共通だったのだ。実際、同じ遺伝子変異を持つ人々が、チリ、メキシコ、ペルーなどに実際生活していて、ネットを通じてメッセージを交換できる。同じ遺伝子変異を私と共有する人々が暮らすこれら南米3ヶ国のIDV平均は23で、アジア同様に非常に低く、とても集団主義的だ。

日本人も昔はもっとずっと集団主義的だったのだろう。家族のために吉原に売られていくなどとは、個人主義的になった現代日本では考えられない。しかし、昔は家族の立場で考える訓練がされていたから、このような悲哀が続いた。集団主義指標の強い国々では、社員は家族の考え方に強く影響されるし、いずれ老親や多くの家族の面倒をみる立場にある。社員の家族にとって、社員が働く場は人ごとではない。吉原の話は極端だが、普通のビジネスでも経営で家族を味方につけることは大切な事柄だ。

明治以降、日本人は、幼いころは親に倣って集団主義的文化を習得したが、自己が確立する青年期には、欧米の個人主義的な文化に憧れその洗礼を強く受ける。その結果、自立志向の強くない「個人主義者」に育つのだ。日本人は、個人主義か集団主義かは個人の主義主張の違いだと勘違いしているが、それは、大人になって自立するか、家族の一員として働くかが究極的な違いなのである。個人の考え方は環境(立場)に大きく影響される。個人主義か集団主義かは、その典型例だ。引きこもりや、いわゆるパラサイト・シングルが日本に多いのは、この自立を学ばない幼少期と個人の自由に憧れる青年期の矛盾した文化的環境のなせるわざなのではないか。少なくとも、自立志向の強い普通の個人主義者が育つようには日本文化はできていないのだ。

そのように自立志向の強い個人主義者が育つような社会が理想なのかというと、よく分からない。私たちは、さまざまな苦労をして子どもを育て、育ってしまうと巣立ってしまい、寂しさを感じる。それが人生なのかもしれない。でも、私たちはこのような状況にあまり慣れていない。何百万年も集団主義で生きて来た私たちの文化には、この寂しさを乗り越える智慧がまだ十分には蓄積されていないのだ。どう対処すればよいか、私たち自身で考えなければならないのだ。

ホフステードの第5の軸であるLTO(長期志向vs短期志向)では、日本は東アジアの国々と同様に、世界的に見て極端に長期志向だ。それは、人々の心の重点が将来に向かう性向が極めて強いことを意味する。ドイツのようにヨーロッパでもこの指標が大きい国もあるが、私たち東アジアの国々ほどではない。そしてこの性向は、私たちの幸せ度を損なう一因でもある。実際、明日のことにまで、しなくてもよい心配をすれば、幸せは遠ざかる。もしかすると、これが私たちの沸点を下げている主因なのかもしれない。先々を心配する心が、私たちを不安定にする。東アジアでは、日々、心配なしには過ごせない性分が心の標準なのだ。

先のことに思いを馳せるのは一概に悪いことではない。心配するからこそ人々はよく働く。ホフステードが文化的価値観の5番目にこの軸を追加したのは、東アジアの経済発展とこの価値観が強い相関を示していたことに着目したからだ。そして、この尺度は宗教が関係していると彼は考えている。

ヒトと言う動物が大きな安定した社会集団を作るため獲得した小さな理性は、アレコレ考え過ぎていろいろな問題を引き起こすという悪い癖がある。これが、社会集団として見たときの小さな理性のデメリットだ。だから、宗教なり文化なりでこれを適切に抑制することは理に適っている。

毎週、修禅寺に通って仏教講話を聞いてくる妻によると、108あるという煩悩は、実は一つであり、それは怒りだという。そう言えばそうかもしれない。怒りは、キリスト教でも七つの大罪の一つだ。社会の中に生じがちな怒りの情動は、集団内のトラブルの主な原因であり、人々はこれを宗教によって抑えようとしたのだ。しかし、宗教の専売特許というわけではない。フランス語の常套句”C’est pas grave!” 「事態はそんなに深刻じゃないわ」がそうだったように、日常的な緊張局面を文化的努力でほぐすこともできる。そう言えば、フランス語のもう一つの常套句”C’est la vie.”「人生ってそんなものよ」も、自らに降りかかった不幸な出来事に、つい大袈裟になりがちな私たちの心に歯止めをかけてくれる。いわば、心の暴走に対する文化的な防壁なのだ。

小さな理性の暴走を防いで集団を安定化させるのが信仰の一つの役割なのかもしれない。そうだとすると、LTOの極端に大きな東アジアでは、信仰が効果的になされていないということになる。実際、私たち東アジアの仏教の教義は奥深く難解だ。悟りを開かないと究極の幸せは得られないと思っている。人々は煩悩からなかなか抜け出せない。アッラーのように、ブッダも「明日のことを考えるときには必ずコレコレを唱えなさい」とかの具体的な指針を与えるべきだったのかもしれない。教義を説く宗教者がまだまだ怠慢なのかもしれない。あるいは、イスラムやクリスチャンが毎日ないし毎週宗教活動に従事しているのに対して、私たちは忙しさにかまけて、年に幾度かしか仏に向き合わない。このことが問題なのかもしれない。昭和初期から始まったラジオ体操の番組は、体操を日課とする文化を日本にもたらした。これで我々は健康になったが、今は、心の健康も大切だ。だから、禅のエッセンスである「マインドフルネス」を、ラジオ体操のように毎朝放送するのが良いのかもしれない。毎朝の星占いもいいけどれど、健康のためには日々の心の体操も必要だ。

私にブッダを非難する気はさらさらない。神様は、東洋では私たち同様に象に乗っているが、西洋では象から離れ唯一の神として天高く君臨している。そして、私たちの小さな理性の使い方を強く制限し、そうすることで私たちに幸せをもたらす。でも、同時にその一神教の原理主義は今も戦争をもたらし続けている。

母系遺伝子変異を私と共有する南米の国々のLTO(長期志向vs短期志向)は27と日本よりもはるかに低い。IVR(放縦vs抑制)は測定値がない国もあるので正確には言えないが、中南米は、世界で見ると北・西欧、南欧の次にIVRが高い地域である。つまり、人々は日々幸せを感じて暮らしている。彼らは数百年前スペイン人に征服され、土着宗教の一部を残しながらキリスト教に改宗した。過酷なスペイン人統治のもと、宗教に強くすがったのだろう。現在、人口の93%がキリスト教徒である。宗教心が強いと、人々の心の重点は過去の伝統と現在に向かい、将来にはあまり向かわない。このことがLTOを平均13と世界一低くし、する必要のない心配事から守っている。

逆に、ソ連の影響下にあったロシアや東欧の旧共産圏の国々は、LTOは平均63と高く、IVR(放縦vs抑制)が非常に低い。世界平均45のIVR(放縦vs抑制)指標は、これらの国々ではなんと平均23だ。それは、人々の暮らしが自分の思うようにならないと感じていることを示す。ソ連崩壊による経済的な困難が一因でもあるのだろうが、共産主義が長く反宗教的だったことも大きく影響しているのだろう。

宗教活動なり、C’est pas grave!とかの常套句の活用なりで、日々の煩悩や怒りを少なくすることができるし、それにより幸せ度が高まる。宗教を信じるか信じないかは人々の自由だ。しかし、幸せのためには、小さな理性が余計な心配をしないようにする何らかの強い精神的枠組みが私たちの日々の生活に必要なのだ。この枠組みが東アジアでは弱く、人々はあくせく仕事をするわりには、幸せが遠い。人間は頭で思っているほどには強くないのだ。

すべての人々に普遍的な情動は、人間性の主要な要素だ。そして、この普遍的な情動を基盤にしながら、私たちが自らが属する集団を組織化するために共同で作りあげてきたのが文化的価値観なのである。それは、集団の中に生起する相反する情動を抑える智慧あるいは妥協――言い換えれば小さな理性の使い方に関するガイドラインの体系なのである。

異文化を理解するということは、

  • 特定の状況で人々に生起する(世界のすべての人々が共有する)情動と、
  • それに対応する文化的ガイドラインに照らして理性が行う判断、その結果としての行動に、
  • 自分でも納得し、共感し、必要であれば自分もそのように行動すること

なのである。

異文化対応力(Cultural Intelligence)

異文化理解の基本的な原理は説明した。でも、文化の違いは実にさまざまだ。それらモロモロを習得するにはどうしたらよいのだろう。

文化的知性とも翻訳されるCultural Intelligenceは、社会心理学者クリス・アーリー等により、2004年にハーバード・ビジネス・レビュー上に発表された。多種多様な文化の違いを学ぶ能力を、人間はみな生まれながらに持っている。具体的にはコレコレだとこの理論は主張する。

学びとることができるのは、考えてみれば当たり前だ。私たちは日本文化を子どもの頃にすでに学びとっているのだから。問題は、コレコレとは何々で、文化を二つ以上学びにくくしている仕組みが何なのかだ。

学びにくくしている仕組み、その入口は、異文化に接していて時折感じる違和感だ。この違和感は放置すると繰り返されて嫌悪感に変わる。異文化接触を夫婦関係に置き換えると、あなたにも心当たりがありはしないだろうか。先にふれたように、日本には、男女間で価値観に比較的大きな段差があって、注意しないと躓いてしまう。

日本文化の「男性らしさ」の極端な大きさは、不公平という強い人間的な情動と常に闘うことになる。社会が豊かになればなるほど、なぜ不公平が許されるのかと感情的になり、見直される運命なのだ。日本では、男女はむしろ異文化と割り切って、きちんと対策を打つべきなのだ。

異文化を学ぶには、まず違和感に気づき、その違和感が嫌悪感に変る前に好奇心に切り替えることだ。そして少し寛容になって違いを楽しむことだ。まず気づき、次に相手が自分やその時の状況をどう捉えているのかなどよく省察する。そして、今までの自分の行動スタイルを勇気を少し出してちょっと変えてみる。その結果、効果があったかどうか観察し、効果がなければ、またよく考えて行動を修正する。これを毎日繰り返すのだ。

子どもにとって文化の習得は、大人になりたいという強い憧れと親のしつこい毎日の躾けが原動力となっている。これに対して、大人にとっての新しい文化の習得は、自分自身を日々変えていくことを意味し、ダイエットや禁煙と同様に、継続するのが実はとても難しい。

だから、「気づき」や「省察力」というメタ認知のほかに、動機を明確にして継続してやる気を出すことや、行動を慎重に変える小さな勇気、そして相手文化に関する知識の蓄積が必要になる。これら4つ能力を使って改善サイクルを回し続けることになる。これが、コレコレの概要だ。

私たちは幼い頃、周囲の大人たちの行動を鵜呑みにしてきた。そしてそれが変わらないように、念のために嫌悪感で封印した。しかし、時代の進歩に合わせて、経済的な豊かさだけでなく幸せも大切だと思うなら、この封印を少し解いて中身を少し書き換えれば良いのだ。

生まれ持った文化的価値観は、いわばスマホの設定の省略値だ。自分の好みに合わないときは、カストマイズすれば良い。ここでは、その方法をお話しした。

幸せに近づくための心のカストマイズ

私たちの遺伝子は、数百万年という進化の歴史を通して、狩猟採集民の生活に最適化されている。それは、複数の家族が連携する集団主義的で、比較的平等な社会だったと考えられている。そして、つい一万年前から始まった文明は、「より多くの人間が生き延びていけるようにしたが、その一方で疫病を引き起こし、男女間や社会的な階級間に不平等を生み、強権的な支配者による専制という害悪をもたらした」。その中で、人々は、幸せを求めてさまざまな工夫をしてきた。

フランス人と中国人は、それぞれ2,000年前のローマ帝国と漢帝国の末裔だ。一方は多様性を尊重する個人主義と信仰を軸として、他方は中央集権を維持する権力を軸として発展してきた。

フランス文化は、男女の愛を第一優先にする社会とはどんなものか、家庭を大切にするには具体的にどうすれば良いのか。そうしたことを教えてくれる。

権力と富に非常に大きな格差のある中国では、厳しい生活のなかでも幸せに生きるためには何が最低限必要なのかを教えてくれる。それは、家族の強い絆であり、友情の大切さだ。そして、周囲の人々の気持ちを日々察しながら生きることが暮らしの大原則なのだ。

「野生の思考は日本にこそ生きている」と言われる。狩猟採集民の比較的平等で集団主義的な価値観が日本文化の基層に残っている。そして、一万年以上も続いた縄文の部族社会以来の伝統が、神風に守られて分厚い地層をなしていた。そしてそこに、唯一、戦後憲法が自由平等という楔を打ち込んだ。

私たちは、敗戦によって自由と個人主義を日本なりに受け入れたが、欧米的な自立と信仰の精神は選択しなかった。日本は復興し経済的に繁栄したが、人々の幸せという視点では世界で中程度のレベルだ。戦後の繁栄はいったい何のためだったのかと問われると、はっきりと答えられない。私たちは何を忘れてきたのか。

戦後日本の社会では、末期ガン患者が、「家族に迷惑をかけたくない」と変なことを言う。「迷惑」という嫌悪を伴う観念が、最も大切な人間関係である家族の中に普通に入り込んでいる。「面倒をかけたくない」ならまだ分かるが、家族とはお互いに面倒をかけ合うものなのだ。助け合うことが幸せの源泉であり、そう生きていくのが家族なのだ。「迷惑をかけなければ何をするのも自由だ」なんてことはない。人生とはそんな気楽なものではない。家族を悲しませてもいけないし、怒らせてもいけない。面倒を迷惑どころか面倒とも思わずに助け合うのが家族なのである。「迷惑をかけない」というルールは、家族のような濃い人間関係には相応しくない。もっと希薄な人間関係でのルールなのだろう。義理人情は古いと言われるかもしれない。でも、私たち人間は、何百万年もそうした家族の中で生きてきた動物なのである。家族を離れては幸せになれない。私たちの遺伝子はそのように進化してきている。

現代の日本は、人々の同質性が極めて高く、違和感を感じたら取り敢えず「迷惑だ」と誰でも怒れる比較的平等な社会だ。そして、役割や社会規範という文化的制約が生活のさまざまなところにまで浸透している。これは社会を効率的にする。しかし、社会秩序や効率化のために、「嫌悪」や「怒り」や「・・・べき」を優先すると、人々の幸せは遠のいてしまう。

最近はやりのアドラー心理学は、アドラーの育ったオーストリアの国民性がベースとなっている。そのオーストリアは、文化的価値観では比較的日本に近い国である。そして、近いにも係わらず幸せ度(IVR指標)で日本より21ポイント(50%)も高い。これが意味するのは、日本の国民性と幸せは実はそう遠くないということなのかもしれない。

人々が幸せになるためには何が大切なのか。それをアドラーはGive & Giveだという。

愛と家庭、家族の絆、友情。そうしたGive & Giveを基本とする人間関係をまず大切にすることだ。間違ってもGive & Takeの関係と取り違えたり、「嫌悪」や「怒り」の感情をこの大切な人間関係に持ち込まないことだ。このちょっとした努力が私たちに足りていなかっただけなのかもしれない。

そして次に、家族の外へも広げていくことだ。嫌悪や怒りの感情に気づいたら、そこに自分の悪い癖があるのかも知れないと疑ってみることだ。肩を怒らせずに、C’est pas grave!「事態はそんなに深刻じゃないんだから」くらいののりで。そして、私たちが幼い頃、無批判に身につけて心の中に今も沈殿している時代遅れの文化的価値観を、異文化対応力を使って、日々の暮らしの折々に少しずつ慎重に見直していくことだ。「嫌悪」を好奇心に変え、「怒り」そして「・・・べき」を取り敢えず横において、地雷を埋めた理由をもう一度よく思い出し、取り越し苦労はほどほどにし、自分と周りの人々の幸せを第一にし、冷静さを取り戻して、少しずつそして慎重に、自分の心を今の自分の好みに合わせてカストマイズしていくことだ。

(おわり)

演習問題

  1. 家族や友人にたのまれてやったこと、やらなかったこと、面倒と感じたこと、あるいは、自分の役割ではないと感じたこと、そうしたことを思い出し、相手になりきって自分を見つめ直してみよう。そして、より良き家族、より良き友人になるために、自分の役割を少し拡大するのも良い作戦なのかもしれない。そして,小さな勇気を出して、今度は自発的にそれをやってみる。そして、それを習慣にして、ライフスタイルを変えていく。
  2. 友人と一緒にゴルフコースをまわって、前の組が遅いと感じたら、いらいらせずに好奇心をいだこう。遅い人も速い人も、いろいろな人たちがプレーする。ゴルフ人口の裾野が広がっていくことは良いことかもしれない。せっかくの余暇、自分をどう変えれば楽しめるか、よく考えてみる。楽しむために、まず笑顔を作るのがよいのかもしれない。
  3. 電車で、若い人が席を譲ってくれなかったときは、日本の文化が少しずつ変化しているのかもしれないと考えてみる。他人の文化は変えられないし、文化に関しては必ず若い人が正しい。30年後、生き残るのは彼らの文化だ。そして、坐るためには、次回はどうすれば良いかを考えてみる。最近はいろいろな路線がある。選択肢が多い。乗車駅とか、乗る時間とか、使う路線とか。グリーン車や指定席を増やす方が、社会としてはより良い選択なのかもしれない。

PDF版: http://mkitaoka.biz/dl/toyama43kinenshi_mkitaoka.pdf

異文化対応力を鍛える!@蘇州 Q/Aなど

蘇州のS-SBFと言う土曜の午後を使った二月に一回の勉強会で「異文化対応力を鍛える!」と題して2.5時間の講演をしてきました。52名の参加者は、S-SBF設立以来最多記録とのことでした。7割が日本人、3割が中国人という構成でした。以下は、講義後に受講者にお送りしたサマリーのメールです。

 

「異文化対応力を鍛える!」受講者各位、

第48回講師の北岡です。

9/12(土)の私の講演に参加していただきありがとうございました。
・2時間で異文化対応力を理解することはほぼ不可能なので、
・その多面的なアプローチを紹介し、まず興味を持っていただくこと
に努めました。いかがでしたでしょうか?

異文化への対応では、学習サイクルを回し続けることがとても大切です。

・異文化接触で違和感を覚えたら、講義を思い出してください。
・そして、象使いが違和感を好奇心に切り替えて、
・講演で学んだ知識を使いながら、学習サイクルを回すのです。
・これを毎日・毎週のように続けると、異文化対応力を鍛えることができます。

逆にこれを続けないと、講演内容は長期記憶の底へ沈んでいき一つの想い出となるだけで何も変化しません。

頑張ってください。

当日会場であるいはアンケートで、いくつか質問がありましたので回答します。

Q1. 中国人が長期指向・集団主義とは思えない。反対に感じる

 回答を以下の私のブログ(中国人と長期指向次元軸)に載せましたので、ご参照ください。

 会社に属することが子々孫々の繁栄に繋がると信じれば、中国人は長期的に考えいろいろな提案をし、自主的に取り組む筈です。この辺りは、会社への帰属意識と関係しているのです。詳しくはブログへ。

Q2. 日本文化は今後どう変化していくのか

 変化が非常にゆっくりであり、変化を予想した人は私の知る限りいないと会場で回答しました。しかし、どう変化して欲しいかは、以前、私のブログ(日本と文化的価値観で近い国々)に書いたことがあります。

 「文化は、その担い手の世代が交替するにつれゆっくりと変化します。それがどのように変わるか予想はできないのですが、期待することはできます。文化的価値観で日本に近い国々の中で、より幸福な国々はスイス、ベルギー、オーストリア、ルクセンブルグです」(抑制と放縦:IVRは幸福軸として考えられた次元軸です)。こうした国々をモデルにして、仕事だけでなく、もっと家庭を大切にすることなどで、より幸福な国になりうると思っています。 

Q3. 放送大学の私の授業で、再度学習したい

 来年度に入学すれば、浜松(5/7-8)あるいは文京キャンパス(5末と秋)で受講できます。

Q4. 中国を中心にした地図はないか?

 質問があれば見せようと準備していました。以下のブログ(中国からの文化的距離で描いた地図)に転載しました。

以上、よろしくお願いします。

以下は当日の講義風景。



中国からの文化的距離で描いた地図

日本文化の孤立状況を正確に捉えるためにコグート=シン指数を使って地図を作ったが、中国に住む人びとから中国が中心の地図も作ってくれとの要望が多々あったので、作りました。

中国と文化的に近くにある国は、香港、シンガポール、インドネシア、ベトナム、インド、バングラデシュです。距離=1では、台湾も韓国も入りません。

他の地図も同様ですが、この地図で正確なのは、中心からの距離と個人主義・集団主義の方向感、そして男らしさ(右)と女らしさ(左)だけです。5次元空間での位置関係を2次元に射像しているので、限界がどうしてもでるのです。

中国人と長期指向次元軸

ホフステードの長期指向・短期指向の次元で、中国は日本とほぼ同じ点数です(それぞれ87と88)。そしてこれは米国の26に比べるとはるかに長期指向側に位置しています。

つまり、中国人も日本人も時間軸上の将来に重点を置いているのに対し、米国人は過去、あるいは今に重点を置いているのです。

中国人の長期指向の一つの典型は、「管鮑之交(かんぽうのまじわり)」の故事でしょう。幼いころからこの四字熟語で「堅い友情は子々孫々の繁栄に繋がる」と中国人は学びますから、一度友人になるとその関係は生涯あるいはそれ以上続きます。

友人の間での貸し借りは、日本人はできるだけ短期に精算しようとしますが、中国人は貸し借りも絆の一つと考えますから、お互いに早期に精算しようとはしません。

中国人が長期指向だと言うホフステードの考えに、このように私も異存はないのです。しかし、そう思えない日本人は多いと思います。その理由は何なのでしょうか。

「内集団への忠誠」(自分の属する集団の義務遂行を大切に思う感情。世界の人びとが普遍的に持っている)の意識の有無が関係しています。

会社に属することが子々孫々の繁栄に繋がると信じれば、中国人は長期指向でいろいろな提案をし、自主的に取り組むと思います。反対に、会社への帰属意識が低いと、中国人にとって会社は他人事であり、短期の付き合いであり、チームワークも何もないのです。

どの集団に自分が属しているか、その集団の身内と思っているかは、人びとの道徳観や価値観に大きな影響を与えます。

会社に属することが長期の利益に繋がると考える日本人は多いのですが、中国人は、会社は董事長や総経理の持ち物だと言う意識が強く、帰属意識は通常高くはありません。

そうした従業員の帰属意識を高めるためには大変な投資が必要なのだと言う意味で、私の講義では火鍋チェーンの事例を照会しています。

異文化対応力を鍛える!@蘇州

2015-09-12 蘇州で表題の短い講演をします。以下はその紹介:

―――――
私は、学生時代、サンケイ・スカラシップを使って2年間フランスへ留学、その後富士通の技術部門に入り、2005年から6年半 南京で会社経営に携わりました。振り返ると、「多様な人々をどう組織化するか?」をずっと考えてきたように思います。

2012年からこれを社内教育する立場で、そして2013年からは放送大学で講義する立場で見直すと、きわめて多くの科学的成果が使えることに気付きました:

・組織の5つの基本課題(組織心理学)
・肯定的な異文化接触の3つの条件(社会心理学)
・人々の行動を理解する四つの切り口(社会心理学、他)
・国民性の6つの次元軸(社会心理学)
・人々を組織化する生得的能力(進化心理学)
・世界の人々に共通する5つ道徳基盤(道徳心理学)
・人々が理解し合うためにキーとなる高次の省察能力(進化心理学)
・異文化対応に必要な4つの能力と学習方法(社会心理学)
・多様性を原動力とする変革のリーダーシップ(ハーバードBS)

心理学者の著作は読みにくいものが多いのですが、彼らの科学的成果はビジネス、特に海外ビジネスで使えるし、欧米では実際に使われています。TEDなどのインターネットはもちろん、NHKのテレビ番組でも徐々に紹介されています。放送大学での講義は12時間ですが、蘇州での持ち時間は2時間と制約があります。このため詳しくは説明できませんが、ポイントとなる考え方を私の経験に沿いながらお話しようと思います。

講義資料の抜粋は以下にあります: CulturalIntelligenceDigest_150912.pdf

管鮑之交 - 堅い友情は子々孫々の繁栄に繋がる

管鮑之交(かんぽうのまじわり)は、友情についての中国人の考えに強く影響している史記の一節だが、多くの日本人はこれを正しく理解していない。

管鮑之交が語っていることは、「堅い友情は子々孫々の繁栄に繋がる」と言う中国伝統の友情論だ。「子々孫々の繁栄」とは、家族集団第一主義の中国ではほぼ人生の目的と言えるほど重要だと言う意味だ。そして、堅い友情とは何かと言うと、「どんなことがあっても友人をステレオタイプで判断せず、友人を信頼し彼の行動の背景にある彼の立場で友人を理解し、そして周囲がなんと言おうと擁護すること」なのである。

現代的に言えば、「友人にはレヴィンの法則を徹底適用し、彼を理解し擁護するべきだ。それが長期的な利益になる」と言うこと。

この故事を分かりやすく日本語で説明した資料が見当たらないので、中国のインターネット上の記事を日本語に翻訳した。中国人が子ども向けにどう言い聞かせているかが分かると思う。

―――――

 昔、斉の国に仲のよい友人がいた。一人は管仲で、もう一人は鮑叔である。若い頃、管仲の家は貧乏で、その上お母さんを養う必要があった。鮑叔はそれを知って、管仲と一緒に商いをすることにした。しかし、商いをするにも管仲はお金がなかったから、必要なお金はほぼすべて鮑叔が出した。ところが、お金が儲かって、それを分けるとき、管仲は鮑叔より多く取ったので、鮑叔の下男が「元手は私たちの主人が出したのに、分け前を主人より多く取るなんて、管仲はおかしい」と言った。それに対して鮑叔は、「そんなことを言ってはならない。管仲の家は貧しい上に、お母さんを養う必要がある。少しぐらい余分にお金を取っても良いじゃないか」と言った。

 ある時、二人が一緒に戦争に行った。管仲は、前進するときは最後尾に止まり、撤退するときは真っ先に逃げた。みんな「管仲は臆病者だ」と言ったので、鮑叔は管仲に替わって直ぐに言った:「君たちは管仲を誤解している。彼は死を恐れているのではなく、母の世話をするために命を捨てるわけにはいかないのだ。」

 その後、斉国の王が死に、諸(zhū)王子が国王になった。諸は毎日遊び呆けていたので、鮑叔は、斉が必ず内乱になると予感し、小白王子をつれて莒(キョ)国に逃げた。管仲も別の糾(jiū)王子をつれて魯国へ逃げた。

 しばらくして、諸は殺され斉国では本当に内乱が起きた。管仲は、小白王子を殺して、糾王子を国王にしようとした。だが、小白を狙った矢は、ベルトに当たっただけで、殺すことはできなかった。

 その後、鮑叔と小白は、管仲と糾よりも早く斉に戻り、小白は斉の国王になった。小白は、鮑叔を宰相にすることにしたが、鮑叔は、「管仲の方が私よりどの分野でも優れている。管仲を迎えて宰相にした方がよい」と言った。小白は「管仲は私を殺そうとした。彼は私の仇敵だ。なぜあなたは私に彼を宰相にしろと言うのか」と言った。鮑叔は、「彼をそれでとがめることはできません。彼は、彼の主人を助けるためにそうしたまでです」と言った。

 小白は鮑叔の話を聞いて管仲に戻って宰相になるように頼んだ。管仲は小白を助けて、斉国を非常によく治めた。

 管仲はいつも言った:「私が貧しかったころ、鮑叔と一緒に商いをし、儲けを分ける時に私が多くとっても、鮑叔は、私が金をむさぼっているとは思わなかった。彼は私が貧しいことを知っていたからだ。私が鮑叔に替わって事をなし、結果、彼を困難な状況にしたとき、鮑叔は私を愚かだとは思わなかった。彼は、時に利、不利があることを知っていたから。私が官吏に何度も登用され、そして罷免されたとき、彼は私の才能を疑わなかった。彼は、私がチャンスに恵まれなかったことを知っていたから。私が何度も戦争に行って逃げてきたとき、彼は私を臆病だとは思わなかった。彼は、私には老いた母がいることを知っていたから。糾王子が失脚して、そのことで召怱が死んだ。私は囚われの身に落ちたが、鮑叔は私を恥知らずとは思わなかった。彼は、私が小さなことを恥とせず、功名を以て天下に知らしめないことを恥とすることを知っていたからだ。私を生んだのは父母だが、私を最も理解しているのは鮑叔だ。」

 鮑叔は管仲を推薦した後、彼は管仲の部下となった。鮑叔の子孫は、代々斉国で俸祿を得た。領地を得たものは十数代に及び、しばしば有名な大夫となった。

 人々は、管仲の才能を誉め称えず、鮑叔の人を見る目を誉め称えた。

 これ以降、友人同士の非常に良い友誼を誉めるとき、彼らは管鮑之交だと言うようになった。

―――――

  • 桓公(かんこう、前685年 –前643年)は、春秋時代・斉の第16代君主。春秋五覇の筆頭に晋の文公(重耳)と並び数えられる。鮑叔の活躍により公子糾との王位継承争いに勝利し、管仲を宰相にして斉を強大な国とした。実力を失いつつあった東周に代わって会盟を執り行った。
  • 管 夷吾(かん いご、生年不詳 – 前645年)は、中国の春秋時代における斉の政治家である。桓公に仕え、覇者に押し上げた。一般には字の仲がよく知られており、管 仲(かん ちゅう)としてよく知られている。
  • 鮑叔(ほうしゅく、生没年不詳)は中国春秋時代の斉の政治家。姓は姒、氏は封地から鮑、諱は牙、字は叔。鮑叔とも。桓公に仕えた。

―――――

 今から2000年以上も前に、他人の心を読む時に環境要因に配慮すべきとしたのは、中華文明の先進的な面だ。ただ、その適用を友人に限定し、その目的を子々孫々の繁栄としたことは、内集団中心主義であり、西欧的普遍主義とは大きく異なっている。内集団の長期的な利益にかなうことは中国人にとって合理的だが、西欧的な合理性、つまり、集団によらずすべての人々にとっての真理であることとは少し話が違うのである。

 管鮑之交は中国の友情論だが、日本文化にはどんな友情論があるのだろう。あまり思い当たらないが、代表的なのはおそらく「走れメロス」なのだろう。日常で役に立ちそうもなく奇麗事とも言われかねないこの太宰治の作品は、きわめて実用的な管鮑之交と対比したとき、日本文化の特徴の一面を如実に語っているように思える。

 中国人の熱い友情は、日本人にとっても心地よいものなのだが、友情が裏切られた時にどうなるかも知っておいた方が良い。その時、中国人は今まで心に秘めていた元友人の悪行を、あることないことあらいざらいぶちまける。そしてそれは、元友人が最も大切にしている人々との信頼関係を台無しにしようとするものなのである。中国で暮らしていると、そうした場面にときどき出会うことがある。

祖父 岩村俊雄が朝鮮に残したもの

終戦まで京城(現在のソウル)の京畿中学校校長をしていた祖父が生まれてから今年で130年、釜山中学校に赴任してから101年になる。また、日韓基本条約締結から数えると今年で50年になる。

50年前の条約締結時私はまだ高校生だったが、 母から、
・祖父は昔の教え子に招待されて韓国を訪問し、
・「日本人と朝鮮人の学生を差別しなかった」校長として
・韓国の新聞に報道されるほど大歓迎を受けた
と聞かされた。

今では考えにくいが、その頃は日韓の間に親善ムードがあったのだ。

その後、国家間の関係は悪化の一途をたどったが、50年前私の祖父を歓待してくれた韓国人に、なお尊敬する気持ちを変えていない人々もいるのではないか。今年(2015年)に入ってなぜか気になりいろいろと調べてみた。

朴贊雄(パク・チャンウン)著『日本統治時代を肯定的に理解する 韓国の一知識人の回想』(草思社)には、「朝鮮人生徒を熱心に教えた教師たち『誠心誠意の人、岩村俊雄校長』」として、祖父についてとても丁寧な記述がある。少し長くなるが、関連部分を引用させていただく。

誠心誠意の人、岩村俊雄校長

・理工系に進むことを勧めた理由

 僕らが京畿中学に入学したときは、岩村俊雄校長が同校に赴任して、ちょうど二年目の年だった。僕らが五年生に進級したとき、彼は勅任官待遇となって総督府の高い役職に栄転されたので、僕は五年間、彼の薫陶の下に中学生時代を送ったことになる。

 僕は彼に対して心から敬愛の情を持つ。彼は誠心誠意の人間であった。彼は京畿中学の学生達がよく勉強して、いい上級学校に大勢入れるように一生懸命努力した。

 彼の目的は何であったろうか。普通一般の校長のように、特に韓国の解放以後の各級学校長のように上級学校にたくさん入れて手柄を立てようとするのではなくて、朝鮮の近代化にしっかりと貢献できる、有為な青年を多数創り出して、結果的に日本の力にしようとする真面目さが目に見えていた。

 彼は国体がどうのとか、日本精神がどうの、上御一人がどうのというようなことは話されたことがない。彼は僕らに、できれば理工系の方に進むように勧めた。これが世の中に実際に役立つ学問であると強調された。それは僕も同感であった。特に韓国では理工系の学問の歴史が浅く、その道の人間も少ない。大体、合併以前に朝鮮には理工系の学校は一つもなかったのだ。日本は既に自製の軍艦と飛行機でロシアやアメリカとわたりあっているというのに。

 理工系の学校は、日本と合併してから日本人によって初めて建てられ、日本人の教授らによって初めて講義が行われたのである。だから彼の眼目は上級学校の進学率に非ず、朝鮮の科学的基盤を創らなくてはならないという信念がその根底に布かれていたのだと思う。

・徒歩矯正、教育展示会に示された親心

 当時学校では、毎朝登校すると教室に鞄を置いて、全校生が校庭に並んで朝会を行った。それは僕が通った師範付属でも同じことだった。小学校では冬の寒い日は朝会を省略した。朝の気温が零下十度以下になると校庭の指揮台に赤い旗が立った。この旗がハタハタとひらめいていたら、これは朝会抜きの信号で、僕らを喜ばせたものである。中学校では零下十度以下でも朝会は強行された。

 朝会で一番長いプログラムは校長訓話である。岩村校長の訓話はいつも長かった。これで終わりかなと思ったら、「ナオ」と一声してまた続く。今度は終わるだろうと思ったら、更に「ナオ」の一声でまた続く。彼は幾ら長く話しても、まだまだ話し足りないらしい。生徒らに「ホントにしっかりしてくれ」と頼むような口ぶりだった。

 岩村校長は生徒らに剣道を奨励した。全校生に剣道が正科として課せられていたのだから、奨励というより重点が置かれたわけだ。講堂と同じ広さの武道場が建った。これには一千人用の道具を納める準備室もついている。放課後の地稽古には、希望者は誰でも参加するよう奨励された。

 当時は一切の球技が皆すたれた状態だった。時局が進むにつれて蹴球、野球、籠球、排球、庭球等は肝心のボールが運動用品店に出回らなくなったので、仕方なしに(?)各中学校で、剣道や柔道が盛んになったとも言えるだろう。

 僕が三年生か四年生のときだった。岩村校長の発案で、毎日授業が二時間すむと全校生が校庭に集められ、軍歌を歌いながらスピーカーの音楽に合わせて校庭を行進させられた。

 彼は言う。

 「君達が歩くのを見ていると、真っ直ぐに立っていない。足を真っ直ぐに出していない。正面を見ていない。グニャグニャと歩いている。これではいけない。真っ直ぐに堂々と歩かねばならない」

 というわけで毎日全校生が運動場を行進した。担任の教師達も出てきて一緒に歩きながら監督した。

 僕はこれを有り難いことだと思った。これはホントの親心がなくてはできないことである。毎日三十分間の「徒歩矯正」のおかげで、多数の生徒らのグニャグニャした歩き方が改善されたことだろう。僕は今でも韓国人の歩く姿勢や座った姿勢が、一般的には水準以下だと思っている。

 京畿中学校の教育がどういう風に行われているかを父兄らに見せるために、岩村校長は学期ごとに(年三回)教育展示会を開催した。校長が父兄らに招待状を送り、この日学校では大体正常通り授業を行いながら、生徒の家族らに一日中、自由に学校のすべての教室、講堂、武道場、校庭の隅々までくまなく出入りさせて観察させた。武道場では剣道の授業が行われたし、校庭では体操や教練の他に、乗馬部の生徒らの騎馬訓練とか滑走部員のグライダー訓練も行われた。

 こういうことも岩村校長の新しい試みで、彼の生徒を思う誠実性の表現であったと僕は思う。

 岩村校長はまた漢詩を吟ずるのを愛して、生徒らに自ら詩吟を指導したり、外部から講師を招聘して生徒らを指導させた。詩吟の練習はみな武道場に正座して行われた。

 彼が特に愛誦した七言絶句二首は次の通り〔二首めは上杉謙信の『九月十三夜、陣中作』〕。

 少年易老学難成 一寸光陰不可軽 未覚池塘春草夢 階前梧葉已秋声

 霜満軍営秋気清 数行過雁月三更 越山併得能州景 遮莫家郷憶遠征

 今や韓国では義務教育になって、全国的に中学校は数千校にもなるだろう。しかしその当時中学校は京城に公私立を合わせて十数校しかなかったと記憶する。

 僕の手元に、宇垣一成朝鮮総督が、昭和九年(一九三四年)九月に京城帝国大学講堂で全国中学校長の会合に出席して「朝鮮の将来」という題目で丁重懇切な講演をした原稿がある。これを見ると、当時の中学校長は今の大学総長以上の尊敬と社会的待遇を受けていたかに見える。

 昭和二十年版『朝鮮年鑑』によると、岩村校長は高知県出身、明治十八年(一八八五年)生、高知師範卒と出ている。

 官舎は京畿中花洞校舎内にあった。ご家族は校長ご夫妻と娘さんお一人だったらしい。当時娘さんは毎朝女学校の制服を着て、逆の方面から怒涛の如く押し寄せてくる一千名の京畿中学生の揺るぎない視線を浴びながら、なだらかな坂道を急ぎ足で安国洞方面に歩いて行ったものだった。今日本のどこかで幸福な老年を過ごしておられるだろうか。

 追記 私は二十年ほど前に京城師範付属第一小学校の同窓会機関紙第一号(一九七二年刊)を手にしたが、今日(二○○四年七月十三日)、偶然にもそこに会員竹埼佳子のお名前の下に「旧岩村」の三字を見つけた。

 もしやと思って直ちに彼女に電話を入れたところ、期待通り彼女は岩村校長のご令嬢であることがわかった。何たる喜びぞ!僕は彼女に、私が岩村校長時代の生徒で、先生を深く敬愛しているということと、私が書いた、先生に関する思い出の短文を郵便でお送りするということを話して電話を切った。(二○○四年記)


京城(ソウル)での岩村家の人々(1930年代後半)

祖父(以下、岩村)が理工系の教育を重視していたことは、彼が40歳の時に「普通学校に於ける理科教授法」(『文教の朝鮮 十月号』p.55, 1925-10-01)を執筆していることからも分かる。中国や朝鮮の教育は伝統的に文系中心だ。中国では今でも、挨拶で四字成句を連発する高級官僚が多数いて、中国文化に疎い外国人を困らせる。中国文化の素養では今でも中国が突出している。しかし一方で、西欧的論理思考に強い中国人はまだまだ少なく、そうした事情は戦前の朝鮮ではなおさらだったと思う。

朴贊雄氏は1975年にカナダに移住し、トロント韓人会会長を勤めたあと、2006年に亡くなられた。親日派と見られる人々は韓国では暮らせず海外に移住したと言うことなのかも知れない。

この他には韓国のネット上にユ・ヒョンソク弁護士の「私の告白」があり、そこに岩村にふれた次のくだりがある(韓国語からインターネット翻訳):

『3.あなたの生涯で最も大きな影響を与えた人、あるいは本や思想は?
   私が通った京畿中学校校長だった岩村俊雄先生である。 彼は日本人だが、監獄から出た民族教育活動家キム・ギョシン(金教臣)先生を講師に委嘱して、私たちがその講義を聞けるように用意してくれたりもしました。』

・ヒョンソク弁護士は、韓国カトリック正義平和委員会会長などを歴任された人権派の長老弁護士で、1993年に韓国国民勲章を受賞され、2004年に亡くなられている(より詳細はここ)。

なお、岩村が、入学試験での民族的差別に反対していたことは、ネット上に公開されている論文:「植民地学歴競争と入学試験の準備競争の登場」(原文、韓国語。インターネット翻訳)にふれられている。

岩村が朝鮮のこれら若い人々を感動させたものは何だったのか?なぜ、彼らは「誠心誠意の人だ」と感じたのか?

その背景にある事実は以下のものだ:
・朝鮮の科学的基盤を創らなくてはならないという岩村の信念に朝鮮人学生が共感した
・朝鮮人学生達がよく勉強して、いい上級学校に大勢入れるように一生懸命努力したと学生が感じていた
・学生らに「ホントにしっかりしてくれ」と頼むような口ぶりだった
・学力向上に父兄をまきこむために、岩村は年三回の教育展示会制度を新たに作った
・監獄から出た朝鮮民族教育活動家を雇用して生徒に教えさせた
・入学試験での民族的差別に反対し、朝鮮総督府の官僚として制度改善に努力した

中国で7年近く会社経営をした私が感じるのは、このようなことは中華文化圏では普通には考えにくいことだと言うことだ。中間管理職が自分の倫理観に基づいて上からの指示・命令とは独立に行動することは、朝鮮が長く属していた中華文化圏では大きなリスクをともなう。

中国では「罪は九族に及ぶ」とされていて、親族が連帯責任を負わされる。明の新体制に反抗した方孝孺の一族800余名は彼の目の前で一人ひとり処刑されたし、清の雍正帝による文字の獄も有名だ。権力に逆らうと自分が最も大切にしている人々に禍が及ぶ。こうした「みせしめ」が中華文化圏における権力行使、秩序維持の最も代表的で効率的な方策であり、これは現在の中国共産党にも踏襲されている。

汚職のように、自己や親族のためにリスクを犯すことは中華文化圏でよく行なわれることだが、まったく縁のない異民族の人々のために倫理的に行動することは、中華文化圏ではまさに「誠心誠意」なのである。

私は、多くの外国人と交流してきた経験から、日本人が倫理観で特に優れているとは思わない。では何が違うのか?

このグラフは、ホフステードの「権力の格差」指標と「集団主義・個人主義」指標でアジアの国々をプロットしたものである。

日本は、西欧に比べると文化的に個人主義とも平等重視とも言えないが、アジアの中では言える。日本はアジアで突出して個人主義であり、かつ権力格差が小さい国なのである。
・日本とインドを除くアジアの国々は、図で下の方に位置するが、これは「ホフステードの集団主義」すなわち「大家族が運命共同体を形成」していることを意味する。これらの国々では、自分が所属する大家族の利害と無関係な目的のために、この集団をリスクにさらすことはありえない。
 日本はこの指標が相対的に小さく、リスクはあるとしても、家族と仕事は別の話ととらえられている。
・一方、図で日本は最も左に位置するが、これは権力の格差がアジアで最も小さいことを意味している。より平等であると言っても良いが、権力をそれほど恐れていないと言うことである。

権力を恐れずに、自らの信念に基づいて行動できるのが、アジアの中での日本人のきわだった特徴なのである。

この特徴には、岩村の他にも多くの事例がある:

・在リトアニア日本領事館の杉原千畝領事代理が、本国からの訓令に反し、ユダヤ人避難民へ通過査証を発行し続けたこと
・28歳の係長に過ぎない堺屋太一氏が万国博覧会の開催を運動して実現
・彼は、この中堅官僚プロジェクトの元祖は石田三成だと言っている(堺屋太一『日本を創った12人』)
・富士通信機製造の一企画課長が役員の海外出張中に独断で電算機事業への参入を発表した。その結果が今の富士通
・本国の命令を聞かない旧満洲の関東軍
中間管理職が日米戦争を決めた

善くも悪くも、日本は中間管理職に動かされてきた国と言えるのではないか。

日本の植民地政策は、家族と言う最も基本的な価値観の枠組みを変えることはなかった。しかし、権力に対する見方には強い影響を残した可能性がある。中華的価値観の元祖である中国に比べ、権力格差の軸で台湾と韓国が大きく左(より平等)に移ったことを、何か他の原因で説明できるのだろうか。

私たちは私の祖父を含めて文化的には「西洋の衝撃」の時代に生きている。日本と韓国の対立といった枠組みではなく、東アジアへの西洋の衝撃の一つの局面としてとらえると、岩村は確かに一つの足跡を残したと思う。

岩村は定年後も朝鮮に留まることを決め、予定していた東京ではなく朝鮮で自宅を購入したが、定年のその年に終戦となりすべての資財を残して日本に引き上げてきた。国家間の関係やこうした個人の生活は、歴史のうねりに大きく翻弄されるが、若い人々の心に刻まれたものは、その後半世紀、あるいは世代を越えて残される。

今の韓国で親日的発言をすることはリスクをともなうと思う。そうした中での彼ら、祖父の教え子たちの個人としての誠意ある発言に敬意を表したいと思う。

韓国のネット上には、この他に「釜山高60年史」や「京畿高 開校百年」に岩村に関する記述があるが、これらは組織集団の歴史記述であり、多かれ少なかれ内集団バイアスが入っている。「誠実さ」と言う個人が持つ道徳性は集団には求めることはできない。

福島に関するフランスの報道記事について、私がフランスの友人に説明したこと

日本の報道機関には大きく二極あって、まったく異なる報道をしています。欧州の報道機関は、その一方の情報のみを使う場合が多いのです。
TF3
の福島に関するドキュメンタリは日本では全部は見られませんが、おそらく原発反対の立場での日本での報道を、さらにセンセーショナルにまとめているようです。こうした報道機関の日本の記事は割り引いて受け取る必要があります。

ほとんどのジャーナリストは、毎日、時間に追われています。毎日毎日原稿の締めがありますから、正確性を犠牲にして、報道の納期やビジネス価値を優先するのです。

正確な記事を書くには、ゆっくり時間をかける必要がありますが、それは、しっかりしたビジネス基盤と豊富な資金が欠かせないと言うことです。

欧米の報道機関の内、日本顧客向けビジネスとして本格的に日本に進出しているのは Wall Street Journal であり、その記事は日本でも尊重されています。

日本の報道機関で、財源がしっかりしていて、報道が正確で信頼できるのはNHKです。

福島に関しては、NHKの特集サイトがあります。子どものガンの記事や、海水汚染に関するリアルタイムモニターがあります。英語版やフランス語版がないのは残念です。

子どもの甲状腺検査
がん・がん疑い103人

〈原発事故
海水リアルタイムモニター〉

このNHKの二つの報道は正確です。しかし、それを理解するには、科学リテラシーが必要です。特に、統計学の知識はmustです。これら二つの記事を以下に補足説明します:

・ガンに関しては、異常値は検出されたけれど、汚染されていない地域との統計的有意な差はなく、福島が他の地域に比べ特に悪いとは科学的には主張できないと言うことです。

 身体の異常は、放射線がなくても起こりうると言う、当たり前の話しか測定できていないのです。関連するWall Street Journalの記事はここ

・海水の方は、もちろん汚染はあるけれど、基準値をはるかに下回っていると言うことです。

 Bq/Lは見慣れない単位ですが、放射性ラジウムであれば、1リットル中に10-11g 含まれていると言うことにあたります。10万tの超巨大タンカーに入れても、0.003 gにしかならないのです。しかも、この1Bq/Lの量でさえ、福島の海では検出できない日々が多いのです。

 記事に「汚染水が毎日数100トン放出されている」とあり、それは事実でしょうが、放射性物質の量で言えば、多くてもラジウム換算で0.00001g前後に過ぎません。

「西洋の衝撃」の時代

世界史と現代を「文化」の視点で展望すると、現代は「西洋の衝撃」の時代となる。16世紀ころから始まって今も続いている。
文化軸で歴史はきわめてゆっくり流れるが、長期的には変化は著しい。
衝撃に対する流れには二極あり、一つは日本やトルコの「脱亜入欧」だし、もう一方はイスラム原理主義だ。
ロシアは脱亜入欧の元祖と思っていたが、プーチンはもう違うと言っているらしい。それに影響を与えたのは中国かも知れない。
韓国では、脱亜入欧が日本化とオーバーラップしていて「裏切り」のように言う人がいるらしいが、中国では政府以外ではあこがれの方が多いのではないか。
日本人にとって「脱亜入欧」は自然だが、この方向で価値観の多様化が進むと、社会はアノミー(明白な規則や規範、価値基準がない社会状態)化しかねない。
日韓や日中関係も「西洋の衝撃」の視点で見ると、腑に落ちることが多い。私の人生もそんな気がする。

参考までに、私の放送大学での講義資料を添付します。