管鮑之交(かんぽうのまじわり)は、友情についての中国人の考えに強く影響している史記の一節だが、多くの日本人はこれを正しく理解していない。
管鮑之交が語っていることは、「堅い友情は子々孫々の繁栄に繋がる」と言う中国伝統の友情論だ。「子々孫々の繁栄」とは、家族集団第一主義の中国ではほぼ人生の目的と言えるほど重要だと言う意味だ。そして、堅い友情とは何かと言うと、「どんなことがあっても友人をステレオタイプで判断せず、友人を信頼し彼の行動の背景にある彼の立場で友人を理解し、そして周囲がなんと言おうと擁護すること」なのである。
現代的に言えば、「友人にはレヴィンの法則を徹底適用し、彼を理解し擁護するべきだ。それが長期的な利益になる」と言うこと。
この故事を分かりやすく日本語で説明した資料が見当たらないので、中国のインターネット上の記事を日本語に翻訳した。中国人が子ども向けにどう言い聞かせているかが分かると思う。
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昔、斉の国に仲のよい友人がいた。一人は管仲で、もう一人は鮑叔である。若い頃、管仲の家は貧乏で、その上お母さんを養う必要があった。鮑叔はそれを知って、管仲と一緒に商いをすることにした。しかし、商いをするにも管仲はお金がなかったから、必要なお金はほぼすべて鮑叔が出した。ところが、お金が儲かって、それを分けるとき、管仲は鮑叔より多く取ったので、鮑叔の下男が「元手は私たちの主人が出したのに、分け前を主人より多く取るなんて、管仲はおかしい」と言った。それに対して鮑叔は、「そんなことを言ってはならない。管仲の家は貧しい上に、お母さんを養う必要がある。少しぐらい余分にお金を取っても良いじゃないか」と言った。
ある時、二人が一緒に戦争に行った。管仲は、前進するときは最後尾に止まり、撤退するときは真っ先に逃げた。みんな「管仲は臆病者だ」と言ったので、鮑叔は管仲に替わって直ぐに言った:「君たちは管仲を誤解している。彼は死を恐れているのではなく、母の世話をするために命を捨てるわけにはいかないのだ。」
その後、斉国の王が死に、諸(zhū)王子が国王になった。諸は毎日遊び呆けていたので、鮑叔は、斉が必ず内乱になると予感し、小白王子をつれて莒(キョ)国に逃げた。管仲も別の糾(jiū)王子をつれて魯国へ逃げた。
しばらくして、諸は殺され斉国では本当に内乱が起きた。管仲は、小白王子を殺して、糾王子を国王にしようとした。だが、小白を狙った矢は、ベルトに当たっただけで、殺すことはできなかった。
その後、鮑叔と小白は、管仲と糾よりも早く斉に戻り、小白は斉の国王になった。小白は、鮑叔を宰相にすることにしたが、鮑叔は、「管仲の方が私よりどの分野でも優れている。管仲を迎えて宰相にした方がよい」と言った。小白は「管仲は私を殺そうとした。彼は私の仇敵だ。なぜあなたは私に彼を宰相にしろと言うのか」と言った。鮑叔は、「彼をそれでとがめることはできません。彼は、彼の主人を助けるためにそうしたまでです」と言った。
小白は鮑叔の話を聞いて管仲に戻って宰相になるように頼んだ。管仲は小白を助けて、斉国を非常によく治めた。
管仲はいつも言った:「私が貧しかったころ、鮑叔と一緒に商いをし、儲けを分ける時に私が多くとっても、鮑叔は、私が金をむさぼっているとは思わなかった。彼は私が貧しいことを知っていたからだ。私が鮑叔に替わって事をなし、結果、彼を困難な状況にしたとき、鮑叔は私を愚かだとは思わなかった。彼は、時に利、不利があることを知っていたから。私が官吏に何度も登用され、そして罷免されたとき、彼は私の才能を疑わなかった。彼は、私がチャンスに恵まれなかったことを知っていたから。私が何度も戦争に行って逃げてきたとき、彼は私を臆病だとは思わなかった。彼は、私には老いた母がいることを知っていたから。糾王子が失脚して、そのことで召怱が死んだ。私は囚われの身に落ちたが、鮑叔は私を恥知らずとは思わなかった。彼は、私が小さなことを恥とせず、功名を以て天下に知らしめないことを恥とすることを知っていたからだ。私を生んだのは父母だが、私を最も理解しているのは鮑叔だ。」
鮑叔は管仲を推薦した後、彼は管仲の部下となった。鮑叔の子孫は、代々斉国で俸祿を得た。領地を得たものは十数代に及び、しばしば有名な大夫となった。
人々は、管仲の才能を誉め称えず、鮑叔の人を見る目を誉め称えた。
これ以降、友人同士の非常に良い友誼を誉めるとき、彼らは管鮑之交だと言うようになった。
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- 桓公(かんこう、前685年 –前643年)は、春秋時代・斉の第16代君主。春秋五覇の筆頭に晋の文公(重耳)と並び数えられる。鮑叔の活躍により公子糾との王位継承争いに勝利し、管仲を宰相にして斉を強大な国とした。実力を失いつつあった東周に代わって会盟を執り行った。
- 管 夷吾(かん いご、生年不詳 – 前645年)は、中国の春秋時代における斉の政治家である。桓公に仕え、覇者に押し上げた。一般には字の仲がよく知られており、管 仲(かん ちゅう)としてよく知られている。
- 鮑叔(ほうしゅく、生没年不詳)は中国春秋時代の斉の政治家。姓は姒、氏は封地から鮑、諱は牙、字は叔。鮑叔とも。桓公に仕えた。
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今から2000年以上も前に、他人の心を読む時に環境要因に配慮すべきとしたのは、中華文明の先進的な面だ。ただ、その適用を友人に限定し、その目的を子々孫々の繁栄としたことは、内集団中心主義であり、西欧的普遍主義とは大きく異なっている。内集団の長期的な利益にかなうことは中国人にとって合理的だが、西欧的な合理性、つまり、集団によらずすべての人々にとっての真理であることとは少し話が違うのである。
管鮑之交は中国の友情論だが、日本文化にはどんな友情論があるのだろう。あまり思い当たらないが、代表的なのはおそらく「走れメロス」なのだろう。日常で役に立ちそうもなく奇麗事とも言われかねないこの太宰治の作品は、きわめて実用的な管鮑之交と対比したとき、日本文化の特徴の一面を如実に語っているように思える。
中国人の熱い友情は、日本人にとっても心地よいものなのだが、友情が裏切られた時にどうなるかも知っておいた方が良い。その時、中国人は今まで心に秘めていた元友人の悪行を、あることないことあらいざらいぶちまける。そしてそれは、元友人が最も大切にしている人々との信頼関係を台無しにしようとするものなのである。中国で暮らしていると、そうした場面にときどき出会うことがある。
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