祖父 岩村俊雄が朝鮮に残したもの

終戦まで京城(現在のソウル)の京畿中学校校長をしていた祖父が生まれてから今年で130年、釜山中学校に赴任してから101年になる。また、日韓基本条約締結から数えると今年で50年になる。

50年前の条約締結時私はまだ高校生だったが、 母から、
・祖父は昔の教え子に招待されて韓国を訪問し、
・「日本人と朝鮮人の学生を差別しなかった」校長として
・韓国の新聞に報道されるほど大歓迎を受けた
と聞かされた。

今では考えにくいが、その頃は日韓の間に親善ムードがあったのだ。

その後、国家間の関係は悪化の一途をたどったが、50年前私の祖父を歓待してくれた韓国人に、なお尊敬する気持ちを変えていない人々もいるのではないか。今年(2015年)に入ってなぜか気になりいろいろと調べてみた。

朴贊雄(パク・チャンウン)著『日本統治時代を肯定的に理解する 韓国の一知識人の回想』(草思社)には、「朝鮮人生徒を熱心に教えた教師たち『誠心誠意の人、岩村俊雄校長』」として、祖父についてとても丁寧な記述がある。少し長くなるが、関連部分を引用させていただく。

誠心誠意の人、岩村俊雄校長

・理工系に進むことを勧めた理由

 僕らが京畿中学に入学したときは、岩村俊雄校長が同校に赴任して、ちょうど二年目の年だった。僕らが五年生に進級したとき、彼は勅任官待遇となって総督府の高い役職に栄転されたので、僕は五年間、彼の薫陶の下に中学生時代を送ったことになる。

 僕は彼に対して心から敬愛の情を持つ。彼は誠心誠意の人間であった。彼は京畿中学の学生達がよく勉強して、いい上級学校に大勢入れるように一生懸命努力した。

 彼の目的は何であったろうか。普通一般の校長のように、特に韓国の解放以後の各級学校長のように上級学校にたくさん入れて手柄を立てようとするのではなくて、朝鮮の近代化にしっかりと貢献できる、有為な青年を多数創り出して、結果的に日本の力にしようとする真面目さが目に見えていた。

 彼は国体がどうのとか、日本精神がどうの、上御一人がどうのというようなことは話されたことがない。彼は僕らに、できれば理工系の方に進むように勧めた。これが世の中に実際に役立つ学問であると強調された。それは僕も同感であった。特に韓国では理工系の学問の歴史が浅く、その道の人間も少ない。大体、合併以前に朝鮮には理工系の学校は一つもなかったのだ。日本は既に自製の軍艦と飛行機でロシアやアメリカとわたりあっているというのに。

 理工系の学校は、日本と合併してから日本人によって初めて建てられ、日本人の教授らによって初めて講義が行われたのである。だから彼の眼目は上級学校の進学率に非ず、朝鮮の科学的基盤を創らなくてはならないという信念がその根底に布かれていたのだと思う。

・徒歩矯正、教育展示会に示された親心

 当時学校では、毎朝登校すると教室に鞄を置いて、全校生が校庭に並んで朝会を行った。それは僕が通った師範付属でも同じことだった。小学校では冬の寒い日は朝会を省略した。朝の気温が零下十度以下になると校庭の指揮台に赤い旗が立った。この旗がハタハタとひらめいていたら、これは朝会抜きの信号で、僕らを喜ばせたものである。中学校では零下十度以下でも朝会は強行された。

 朝会で一番長いプログラムは校長訓話である。岩村校長の訓話はいつも長かった。これで終わりかなと思ったら、「ナオ」と一声してまた続く。今度は終わるだろうと思ったら、更に「ナオ」の一声でまた続く。彼は幾ら長く話しても、まだまだ話し足りないらしい。生徒らに「ホントにしっかりしてくれ」と頼むような口ぶりだった。

 岩村校長は生徒らに剣道を奨励した。全校生に剣道が正科として課せられていたのだから、奨励というより重点が置かれたわけだ。講堂と同じ広さの武道場が建った。これには一千人用の道具を納める準備室もついている。放課後の地稽古には、希望者は誰でも参加するよう奨励された。

 当時は一切の球技が皆すたれた状態だった。時局が進むにつれて蹴球、野球、籠球、排球、庭球等は肝心のボールが運動用品店に出回らなくなったので、仕方なしに(?)各中学校で、剣道や柔道が盛んになったとも言えるだろう。

 僕が三年生か四年生のときだった。岩村校長の発案で、毎日授業が二時間すむと全校生が校庭に集められ、軍歌を歌いながらスピーカーの音楽に合わせて校庭を行進させられた。

 彼は言う。

 「君達が歩くのを見ていると、真っ直ぐに立っていない。足を真っ直ぐに出していない。正面を見ていない。グニャグニャと歩いている。これではいけない。真っ直ぐに堂々と歩かねばならない」

 というわけで毎日全校生が運動場を行進した。担任の教師達も出てきて一緒に歩きながら監督した。

 僕はこれを有り難いことだと思った。これはホントの親心がなくてはできないことである。毎日三十分間の「徒歩矯正」のおかげで、多数の生徒らのグニャグニャした歩き方が改善されたことだろう。僕は今でも韓国人の歩く姿勢や座った姿勢が、一般的には水準以下だと思っている。

 京畿中学校の教育がどういう風に行われているかを父兄らに見せるために、岩村校長は学期ごとに(年三回)教育展示会を開催した。校長が父兄らに招待状を送り、この日学校では大体正常通り授業を行いながら、生徒の家族らに一日中、自由に学校のすべての教室、講堂、武道場、校庭の隅々までくまなく出入りさせて観察させた。武道場では剣道の授業が行われたし、校庭では体操や教練の他に、乗馬部の生徒らの騎馬訓練とか滑走部員のグライダー訓練も行われた。

 こういうことも岩村校長の新しい試みで、彼の生徒を思う誠実性の表現であったと僕は思う。

 岩村校長はまた漢詩を吟ずるのを愛して、生徒らに自ら詩吟を指導したり、外部から講師を招聘して生徒らを指導させた。詩吟の練習はみな武道場に正座して行われた。

 彼が特に愛誦した七言絶句二首は次の通り〔二首めは上杉謙信の『九月十三夜、陣中作』〕。

 少年易老学難成 一寸光陰不可軽 未覚池塘春草夢 階前梧葉已秋声

 霜満軍営秋気清 数行過雁月三更 越山併得能州景 遮莫家郷憶遠征

 今や韓国では義務教育になって、全国的に中学校は数千校にもなるだろう。しかしその当時中学校は京城に公私立を合わせて十数校しかなかったと記憶する。

 僕の手元に、宇垣一成朝鮮総督が、昭和九年(一九三四年)九月に京城帝国大学講堂で全国中学校長の会合に出席して「朝鮮の将来」という題目で丁重懇切な講演をした原稿がある。これを見ると、当時の中学校長は今の大学総長以上の尊敬と社会的待遇を受けていたかに見える。

 昭和二十年版『朝鮮年鑑』によると、岩村校長は高知県出身、明治十八年(一八八五年)生、高知師範卒と出ている。

 官舎は京畿中花洞校舎内にあった。ご家族は校長ご夫妻と娘さんお一人だったらしい。当時娘さんは毎朝女学校の制服を着て、逆の方面から怒涛の如く押し寄せてくる一千名の京畿中学生の揺るぎない視線を浴びながら、なだらかな坂道を急ぎ足で安国洞方面に歩いて行ったものだった。今日本のどこかで幸福な老年を過ごしておられるだろうか。

 追記 私は二十年ほど前に京城師範付属第一小学校の同窓会機関紙第一号(一九七二年刊)を手にしたが、今日(二○○四年七月十三日)、偶然にもそこに会員竹埼佳子のお名前の下に「旧岩村」の三字を見つけた。

 もしやと思って直ちに彼女に電話を入れたところ、期待通り彼女は岩村校長のご令嬢であることがわかった。何たる喜びぞ!僕は彼女に、私が岩村校長時代の生徒で、先生を深く敬愛しているということと、私が書いた、先生に関する思い出の短文を郵便でお送りするということを話して電話を切った。(二○○四年記)


京城(ソウル)での岩村家の人々(1930年代後半)

祖父(以下、岩村)が理工系の教育を重視していたことは、彼が40歳の時に「普通学校に於ける理科教授法」(『文教の朝鮮 十月号』p.55, 1925-10-01)を執筆していることからも分かる。中国や朝鮮の教育は伝統的に文系中心だ。中国では今でも、挨拶で四字成句を連発する高級官僚が多数いて、中国文化に疎い外国人を困らせる。中国文化の素養では今でも中国が突出している。しかし一方で、西欧的論理思考に強い中国人はまだまだ少なく、そうした事情は戦前の朝鮮ではなおさらだったと思う。

朴贊雄氏は1975年にカナダに移住し、トロント韓人会会長を勤めたあと、2006年に亡くなられた。親日派と見られる人々は韓国では暮らせず海外に移住したと言うことなのかも知れない。

この他には韓国のネット上にユ・ヒョンソク弁護士の「私の告白」があり、そこに岩村にふれた次のくだりがある(韓国語からインターネット翻訳):

『3.あなたの生涯で最も大きな影響を与えた人、あるいは本や思想は?
   私が通った京畿中学校校長だった岩村俊雄先生である。 彼は日本人だが、監獄から出た民族教育活動家キム・ギョシン(金教臣)先生を講師に委嘱して、私たちがその講義を聞けるように用意してくれたりもしました。』

・ヒョンソク弁護士は、韓国カトリック正義平和委員会会長などを歴任された人権派の長老弁護士で、1993年に韓国国民勲章を受賞され、2004年に亡くなられている(より詳細はここ)。

なお、岩村が、入学試験での民族的差別に反対していたことは、ネット上に公開されている論文:「植民地学歴競争と入学試験の準備競争の登場」(原文、韓国語。インターネット翻訳)にふれられている。

岩村が朝鮮のこれら若い人々を感動させたものは何だったのか?なぜ、彼らは「誠心誠意の人だ」と感じたのか?

その背景にある事実は以下のものだ:
・朝鮮の科学的基盤を創らなくてはならないという岩村の信念に朝鮮人学生が共感した
・朝鮮人学生達がよく勉強して、いい上級学校に大勢入れるように一生懸命努力したと学生が感じていた
・学生らに「ホントにしっかりしてくれ」と頼むような口ぶりだった
・学力向上に父兄をまきこむために、岩村は年三回の教育展示会制度を新たに作った
・監獄から出た朝鮮民族教育活動家を雇用して生徒に教えさせた
・入学試験での民族的差別に反対し、朝鮮総督府の官僚として制度改善に努力した

中国で7年近く会社経営をした私が感じるのは、このようなことは中華文化圏では普通には考えにくいことだと言うことだ。中間管理職が自分の倫理観に基づいて上からの指示・命令とは独立に行動することは、朝鮮が長く属していた中華文化圏では大きなリスクをともなう。

中国では「罪は九族に及ぶ」とされていて、親族が連帯責任を負わされる。明の新体制に反抗した方孝孺の一族800余名は彼の目の前で一人ひとり処刑されたし、清の雍正帝による文字の獄も有名だ。権力に逆らうと自分が最も大切にしている人々に禍が及ぶ。こうした「みせしめ」が中華文化圏における権力行使、秩序維持の最も代表的で効率的な方策であり、これは現在の中国共産党にも踏襲されている。

汚職のように、自己や親族のためにリスクを犯すことは中華文化圏でよく行なわれることだが、まったく縁のない異民族の人々のために倫理的に行動することは、中華文化圏ではまさに「誠心誠意」なのである。

私は、多くの外国人と交流してきた経験から、日本人が倫理観で特に優れているとは思わない。では何が違うのか?

このグラフは、ホフステードの「権力の格差」指標と「集団主義・個人主義」指標でアジアの国々をプロットしたものである。

日本は、西欧に比べると文化的に個人主義とも平等重視とも言えないが、アジアの中では言える。日本はアジアで突出して個人主義であり、かつ権力格差が小さい国なのである。
・日本とインドを除くアジアの国々は、図で下の方に位置するが、これは「ホフステードの集団主義」すなわち「大家族が運命共同体を形成」していることを意味する。これらの国々では、自分が所属する大家族の利害と無関係な目的のために、この集団をリスクにさらすことはありえない。
 日本はこの指標が相対的に小さく、リスクはあるとしても、家族と仕事は別の話ととらえられている。
・一方、図で日本は最も左に位置するが、これは権力の格差がアジアで最も小さいことを意味している。より平等であると言っても良いが、権力をそれほど恐れていないと言うことである。

権力を恐れずに、自らの信念に基づいて行動できるのが、アジアの中での日本人のきわだった特徴なのである。

この特徴には、岩村の他にも多くの事例がある:

・在リトアニア日本領事館の杉原千畝領事代理が、本国からの訓令に反し、ユダヤ人避難民へ通過査証を発行し続けたこと
・28歳の係長に過ぎない堺屋太一氏が万国博覧会の開催を運動して実現
・彼は、この中堅官僚プロジェクトの元祖は石田三成だと言っている(堺屋太一『日本を創った12人』)
・富士通信機製造の一企画課長が役員の海外出張中に独断で電算機事業への参入を発表した。その結果が今の富士通
・本国の命令を聞かない旧満洲の関東軍
中間管理職が日米戦争を決めた

善くも悪くも、日本は中間管理職に動かされてきた国と言えるのではないか。

日本の植民地政策は、家族と言う最も基本的な価値観の枠組みを変えることはなかった。しかし、権力に対する見方には強い影響を残した可能性がある。中華的価値観の元祖である中国に比べ、権力格差の軸で台湾と韓国が大きく左(より平等)に移ったことを、何か他の原因で説明できるのだろうか。

私たちは私の祖父を含めて文化的には「西洋の衝撃」の時代に生きている。日本と韓国の対立といった枠組みではなく、東アジアへの西洋の衝撃の一つの局面としてとらえると、岩村は確かに一つの足跡を残したと思う。

岩村は定年後も朝鮮に留まることを決め、予定していた東京ではなく朝鮮で自宅を購入したが、定年のその年に終戦となりすべての資財を残して日本に引き上げてきた。国家間の関係やこうした個人の生活は、歴史のうねりに大きく翻弄されるが、若い人々の心に刻まれたものは、その後半世紀、あるいは世代を越えて残される。

今の韓国で親日的発言をすることはリスクをともなうと思う。そうした中での彼ら、祖父の教え子たちの個人としての誠意ある発言に敬意を表したいと思う。

韓国のネット上には、この他に「釜山高60年史」や「京畿高 開校百年」に岩村に関する記述があるが、これらは組織集団の歴史記述であり、多かれ少なかれ内集団バイアスが入っている。「誠実さ」と言う個人が持つ道徳性は集団には求めることはできない。