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多国語の学び方(2):言葉は音の流れ

四ヶ国語が話せるようになって、めったに人を褒めない母からも語学に対する才能だけは認められるようになった。しかし、私個人としては、語学に取り立てて才能があるとは今でも思っていない。他の人との違いは、学習の継続性と方法だったように思う。

中学二年に進学する前の春休みに、英語のオーディオ教材を買って発音に拘って徹底的に練習した。新しいクラスで、みんなを驚かせたかった。あるいは、少し、カッコよく見せたかった。そんな理由だったと思う。そしてこの狙いは的中し、英語の先生をひどく驚かせたことを憶えている。

その後、引き下がれなくなった。英語が優秀な生徒と言う看板を下ろせなくなった。そして、オーディオ教材での学習を続けたのである。

今では認知心理学の「記憶の多層性」として知られるようになったが、人間は抽象的な言葉の記憶が一番苦手である。そんな高等な動物ではないのである。

言葉を憶えるためには、もっとたくさんの具体的な入力があった方が有利になる。スペルと意味だけでなく、音の流れと、それによって伝わってくる感情や雰囲気、教材に描かれているイメージなどが、記憶を多層的にしてくれる。語学は音から学ぶ と言うか、赤ちゃんのように、音を基本に五感を駆使し、感動し、喜びながら学ぶものなのである。

そしてもう一つ、語学では外国語を聞きわけることが絶対的に必要になるが、そのためには、発音できなければならない。発音できない音は聞き分けられないし、聞き分けるには教材と自分の発音を比較し、修正しながら練習し続けるしかないのである。

同じ音だと思って処理していた脳に、これとこれは違う音なのだと気付かせなければならない。この気付きというのが、人間は、また、とても苦手なのである。

語学学習にとってたいせつなのは、幼児のような五感の駆使、感動、喜び、そして気付きなのである。

四ヶ国語ができると言うこと

言葉はコミュニケーションの手段であり、思考の道具でもあるが、その母国文化と強く結び付いている。

日本語で話す時と、中国語で話す時、英語で話す時、フランス語で話す時、そもそも話す内容が異なる場合が多いし、同じ内容でも結論が異なることもある。

朝、フランスの大学キャンパスで友達に会うと、bise(頬にするキス)から始まったりするから、「今日もまた一段と可愛いね」みたいな話にならざるを得ない(実際何を話したかの記憶は今ではないが、キスした記憶は残っている)。

ヘールト・ホフステードは、文化をソフトウェア・オブ・ザ・マインドと定義したけれど、複数の異文化のなかで長く暮らすと、これが、言語ごとに別々に頭に入っているように感じる。
母国語のソフトウェアは、幼いころの父母との会話、思い出、感情などが幾層にも重なって結びついているが、異文化の場合これがないことが大きく異なる。非常に多くのことが慣行としてプログラムされているのだが、深さと言うか価値観が足りない不完全な部分的なソフトウェアのように感じる。

この異文化用ソフトウェアの不完全さをある程度補ってくれるのが、読書だ。「明朝那些事儿」は明朝250年の歴史を口語で綴った長編歴史本だが、中国の歴史に関する書籍を日本語で読むときとはまったく異なる感動を私に与えてくれる。中国の現代の価値観で明朝の歴史を読むことになるからである。

今年は、中国の方や、中国語での誕生日祝いのメールが届いたので、私としては初めて中国語のお礼のメールを作った。中国の方々の評価が高かったので、私のFacebookのタイムラインからの転載する:

谢谢你的来信。今年也又来个生日了。在我这个年龄生日不是希望而是想念。六月六日,这个日子让人想起六六大顺,我觉得这个时不时帮助我了。据说生日是父忧母难日,几十年前的那天已经有了三个女儿的他们终于得到了一个儿子了。虽然今天他们已经不在,那天他们带的喜悦我还可以想像到而感到感谢。最后,祝你全家安康,万事如意,六六大顺。

日本語に翻訳すると:

お祝いのメール、ありがとう。今年もまた誕生日が来てしまった。こんな年になると、誕生日は、希望ではなく想念(懐かしく思い出すこと)なんだ。6月6日は、中国では「六六大順」と言う成語を思い起こさせる。順調と言う意味のこの言葉は、私をいつも助けてくれたように思う。誕生日は、父が心配し母が苦難にあう日とも言う。数十年前のこの日、三人の娘を持つ彼らが、やっと、ひとりの息子を得ることができた。もう彼らはいないけれど、あの日の彼らの喜びを私が思いえがき、それに感謝することはできるよ。最後に、あなたの家族の健康と平安、あなたのすべての希望が順調に(六六大順)かないますように、お祈りします。

こんなメール、日本語ではとても書けないけれど、中国の方々からは、とても中国的で外国人が書いたと思えないと言う評価をいただいています。言葉は、文化の一部だとつくづく思います。

漢字の訓読み

日本語の語彙の非常に多くが中国語に由来する。みんな知っている音読みの語だけでなく、訓読みと思っている「うま(馬)」や「うめ(梅)」も明らかに中国語起源だ。そんなものも含めて全部取り去って、ほんとうの訓読みだけの生活を思考実験してみる。

そこで気付くのが、「てら(寺)」と言う言葉だ。この発音は、中国から来たとは思えないのだが、漢字が伝来する前の日本列島に、寺があったのだろうか?

訓よみの起源から考えれば、漢字伝来の前に寺があったはずだし、「寺」と言う概念もあったはずなのである。でも、ほんとうにそうなのだろうか?

この私の疑問に答えてくれたのが、漢字伝来以前の弥生・古墳時代に伝わった朝鮮語からの借用語(日本語千夜 小林昭美-050)と言う可能性だ。

朝鮮の言葉を、今のカタカナ語のように取り入れた時代、朝鮮の文化にあこがれていた時代があったのだと言う可能性だ。

そう言えば、さっきの「うま(馬)」や「うめ(梅)」も朝鮮半島起源なのかも知れない。

ただ、小林昭美さんの論文の中で、借用語らしく思えるのは「てら(寺)」の他は「くつ(靴)」や「うま(馬)」ぐらいでしょうか。それ以外のほとんどは、縄文時代から日本にあっても不思議でない概念であり、言葉のように感じます。言葉が借用されるのは、新しい物や概念を語りたいと思う時です。水と言う言葉の語源となると、数万年以上昔の話であり、別の議論が必要でしょう。
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漢字の音読み

先週、探し物をしていて、8年前に読んだ日本語の起源に関する論文が目に入り、改めて読んでみた。

この論文で言う 日本語と朝鮮語の「ただごとでない」似方 は、2010年の旧正月に訪れた慶州(写真)で私も感じ、ずっと興味を持ってきたテーマだ。ただ、中国語のおびただしい語彙と概念を日本語に取り入れたのは、朝鮮半島系の渡来人主導であったであろうことを考えると、似ていて当然のようにも感じる。

今のフランスが位置する地域は昔ガリアと呼ばれていて、シーザーが征服する前はケルト系の言葉が話されていた。しかし、ローマ帝国の数百年の統治で、ケルト語は忘れ去られ、人々はラテン語の方言を話すようになったのである。これは強制されたからではなく、ガリア人がローマの文化にあこがれ続けたからなのである。言葉と言うものは、数百年のスケールで考えると、とても、移ろいやすいものだ。

最近のカタカナ語の氾濫と同じような漢語の氾濫が、言わば韓流渡来人主導の形で弥生・古墳時代に数百年続き、その痕跡が、今の日本の漢字文化の基礎をなしている。
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多国語の学び方(1):音読み、訓読み、中国語読み

9年前、54歳の時に三つ目の外国語である中国語を学び始めた。

中国赴任の話はまだまったくなかったが、出張は増えていて、タクシーくらいは使えるようになりたいと言うのが当初の目的だった。ただ、長期的には中国語もマスターしようと言う気持ちもあり、基礎はしっかり学ぼうと思った。

基礎の基礎は発音であり、また、それを聞き分けるようにすることである。

中国語はすべて漢字で書かれているのだから、5~6割がた意味は分かるはずであり、発音と言うか漢字の読みを憶えれば語学力でかなりのレベルに達する。

教材は、「上野恵司著 中国語発音の基礎 (CDブック)」。

発音の仕方を、教材に書かれている通り完全に体で覚えることがまず大事。まず発音できるようにし、次に、聞きわけられるように練習を繰り返す。そう、学習開始当初は、発音はできても聞きわけることはできていない。この状態は何カ月、あるいは何年も続く。自分が聞き分けられないとしても、中国人の多くは聞き分けているので、教材に書かれている通り、精確に発音することを続けなければならない。

練習は、教材のCDをMP3プレーヤーに入れて、毎日の通勤時に繰り返し聞く。そして、聞きながら自分で発音し、CDの発音と自分の発音の違いを注意深く聞き、違いがあれば少しずつ発音方法を修正していく。これを4ヶ月くらいやった。

単調な作業だが、とにかく、これをマスターすれば、あとは、きわめて楽なはずなのである。

日本人は、漢字の書き方、字義、音読み、訓読みをすでにマスターしているのだから、中国語習得の基本は、もう一つ中国語読みをマスターするだけなのである。

リーダーシップと人類学

「リーダーシップに必要なのは、少しばかり、人類学者のように考えてみることだ。人類学者は、未知の世界へ舞い降りる。そして、その世界についてじっくり学んでから、何をすべきか、何をしてもいいか誰と何をし誰に協力してもらうかを決める。(ロナルド・ハイフェッツ教授のリーダーシップ白熱教室 第5回、NHK)」

学生時代の2年間をフランスで過ごして何が変わったかと言うと、日本とフランスの二つの視点をいつも切り替えながら周りを見るようになったことだと思う。

中国に駐在しても、「ここは日本と共通かもしれない」「ここはむしろフランスに近い考えかもしれない」「ここは中国に特有なところであり、自分の価値観を修正するべきところかもしれない」と言うふうに、周囲を眺め、その背景にある価値観が何かを常に考えている。

これは人類学者の行動様式なのかもしれない。

多様性の尊重は、単なる寛容さではない。「あなたはあなたの好きなようにすればよい。私も私の好きなようにする」だけでは限界があり、解決しない問題は多い。いつか決定的にぶつかるかもしれない。

多様性を尊重すると言う姿勢は、人類学者のようにその世界をじっくり学ぶことから始める必要がある。

多様性の尊重

最近、テレビをリアルタイムで見ることはほとんどなくなった。HDDレコーダーにとっておいたものやNHKオンデマンドなどを見ている。これだと、好きな時に見られるし、大事なところは繰り返し見られる。

多様性の尊重については、「緒方貞子 戦争が終わらない この世界で」 で緒方さんが最後に語っていた言葉「大事なのは多様性の尊重」が忘れられない。

また、ハーバード ケネディスクールのロナルド・ハイフェッツ教授のリーダーシップ白熱教室でも、リーダーシップの重要な一要素として熱く語られている。この講座は、リーダーシップとは何かを、生物の進化になぞらえながら極めて明快に語ってくれる。つまり、生物は多様性なしに進化はあり得ず、社会でもこの多様性をいかして進化させるのがリーダーシップだと。

もはや、テレビを見ているのではなく、大学院の授業を受けている感覚になる。