言葉はコミュニケーションの手段であり、思考の道具でもあるが、その母国文化と強く結び付いている。
日本語で話す時と、中国語で話す時、英語で話す時、フランス語で話す時、そもそも話す内容が異なる場合が多いし、同じ内容でも結論が異なることもある。
朝、フランスの大学キャンパスで友達に会うと、bise(頬にするキス)から始まったりするから、「今日もまた一段と可愛いね」みたいな話にならざるを得ない(実際何を話したかの記憶は今ではないが、キスした記憶は残っている)。
ヘールト・ホフステードは、文化をソフトウェア・オブ・ザ・マインドと定義したけれど、複数の異文化のなかで長く暮らすと、これが、言語ごとに別々に頭に入っているように感じる。
母国語のソフトウェアは、幼いころの父母との会話、思い出、感情などが幾層にも重なって結びついているが、異文化の場合これがないことが大きく異なる。非常に多くのことが慣行としてプログラムされているのだが、深さと言うか価値観が足りない不完全な部分的なソフトウェアのように感じる。
この異文化用ソフトウェアの不完全さをある程度補ってくれるのが、読書だ。「明朝那些事儿」は明朝250年の歴史を口語で綴った長編歴史本だが、中国の歴史に関する書籍を日本語で読むときとはまったく異なる感動を私に与えてくれる。中国の現代の価値観で明朝の歴史を読むことになるからである。
今年は、中国の方や、中国語での誕生日祝いのメールが届いたので、私としては初めて中国語のお礼のメールを作った。中国の方々の評価が高かったので、私のFacebookのタイムラインからの転載する:
谢谢你的来信。今年也又来个生日了。在我这个年龄生日不是希望而是想念。六月六日,这个日子让人想起六六大顺,我觉得这个时不时帮助我了。据说生日是父忧母难日,几十年前的那天已经有了三个女儿的他们终于得到了一个儿子了。虽然今天他们已经不在,那天他们带的喜悦我还可以想像到而感到感谢。最后,祝你全家安康,万事如意,六六大顺。
日本語に翻訳すると:
お祝いのメール、ありがとう。今年もまた誕生日が来てしまった。こんな年になると、誕生日は、希望ではなく想念(懐かしく思い出すこと)なんだ。6月6日は、中国では「六六大順」と言う成語を思い起こさせる。順調と言う意味のこの言葉は、私をいつも助けてくれたように思う。誕生日は、父が心配し母が苦難にあう日とも言う。数十年前のこの日、三人の娘を持つ彼らが、やっと、ひとりの息子を得ることができた。もう彼らはいないけれど、あの日の彼らの喜びを私が思いえがき、それに感謝することはできるよ。最後に、あなたの家族の健康と平安、あなたのすべての希望が順調に(六六大順)かないますように、お祈りします。
こんなメール、日本語ではとても書けないけれど、中国の方々からは、とても中国的で外国人が書いたと思えないと言う評価をいただいています。言葉は、文化の一部だとつくづく思います。