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東京オリンピックを予定通り本当に開催できるのか?

政府やIOCはオリンピックを予定通り開催すると言い張っている。

確かにこの状況で開催できれば奇跡であり、安倍晋三の名前は世界の歴史に残るだろう。では、それが本気だとしたら何を意味するのか考えてみた。

海外から感染した観客が7月の日本にたくさん来るわけだから、日本人の大半はそのころまでにウイルスに対する抗体を持っていなければならない。国家としてのウイルス抵抗力がオリンピック開催の前提なのだ。

国民の x% が一旦感染して抗体を作って快復したとすると、ウイルスの日本での感染力はその時点で (1-x)% に下がる。例えば、x = 66% とすると、感染力は 33% に下がるということだ。

オリンピックの会場や宿泊施設等々付近にいる日本人は何人ぐらいなのだろうか?仮に6千万人とすると、その 66% は 4千万人だ。新型コロナウィルスは、感染しても80%の人は発症しないから、発症するのは800万人ということになる。日本には有床の医療施設が約15,000ある。800万人をこの施設でこなすには、1施設当たり533人の患者に対応する必要がある。

これを7月までの4か月間120日で割ると、4.5人/(日・施設)になる。こう考えると、まったくの夢物語ともいえないのかも知れない。

ただ、問題は死者がどれだけ出るかだろう。

医療崩壊した武漢やイラン、イタリアの致死率は、現時点でそれぞれ 4.55%、5.69%、8.95%と非常に大きい。しかし、日本の医療システムがダイヤモンド・プリンセス号でみせた能力は、致死率 0.98% だ。今後感染する日本人は、クルーズ船乗客よりもずっと若い元気な人々だろうから、致死率はずっと下がることが期待できる。それで、今後の致死率は 0.1% と仮定しよう。それでも患者が8,000,000人となると、死者は8,000人という計算になる。これは、かなり悲惨だ。オリンピックを開催できる状況ではない。

一方、現在の日本の状況は、そんなに悪くない。死者は累計で28人だ。8,000人に対して28人ということは、言葉は悪いが進捗率で0.35%に過ぎない。政府の発言がいかに根拠が薄いか分かる。

感染のピークが過ぎなければ、海外から観客が大勢くるとは思えないし、過ぎたらすぎたで死者が膨大に出て、オリンピックどころではない。政府もIOCも予定通り開催すると言い張っているが、これは経済対策のようなもので、1年後にワクチンが大量に出回るまではやはり開催できるとは思えないね。

ちなみに、これまでの約1カ月の死亡者数推移をグラフにすると以下だ:

心が痛むのはイタリアの状況だ。一日に700人の死者を出すことは、悲惨だった武漢の比ではない。イタリア、イラン、スペインを合わせると死者は毎日800人以上だが、これは2月中旬の武漢の死者数のおよそ5倍だ。

さらに、それを追う地域が、フランス、イギリス、米国、その他の国々だ。まだ、先頭集団に比べるとそれ程深刻とは言えないのかもしれないが、今後どのように推移していくのだろう。

感染拡大と信仰

中国からCovid-19の感染が急速に伝わった国は、イラン、イタリア、韓国で、その共通要因として、中国との密接な経済関係と宗教活動が各種報道でもとりあげられている。

世界の国々の宗教的価値観の状況を端的に示したものに、イングルハート-ヴェルツェル図 http://bit.ly/2wUktR8がある。この図の縦軸が宗教vs世俗で、イランとイタリアは信仰の篤い国々に位置付けられている。

この図で韓国は、日本や中国と同様に世俗的な文化と位置付けられているが、今回、韓国社会で新興宗教が強い影響力を持っていることが確認された。

今急速に感染が拡大している国々はどこかを明確にするために、感染確認数とその増加速度で地図を作ったのが昨日の散布図だが、今日(2020-03-14)時点では以下のようになっている。

イタリアとイランは、依然感染が拡大しているが、韓国は一部の人々が信仰する新興宗教の問題なので、感染は急速に縮小している。

韓国同様に世俗的な北欧の国々(オランダを含む)では、今日時点では感染拡大が比較的制御されているように見える。感染原因の多くはイタリアへの旅行であり、季節的な要因に過ぎないのかも知れない。

感染確認数と増加速度の大きさでイタリアに続く勢いで懸念されるのが、スペイン、ドイツ、フランスと米国だ。

ドイツとフランスは、むしろ世俗的な国ぐにに分類されるので、北欧同様に、今後感染拡大が制御されやすいのではないだろうか。

心配なのは、信仰の篤いとされるスペインと米国だろう。 老若男女、人々が集まる宗教活動が日常になっている国々は、ウイルスにとっては好都合な場所だ。

Covid19の感染拡大のスピード違反の地域はどこか

感染拡大のスピードは地域によってまちまちだが、これを「速すぎる地域」と「普通~終息しつつある地域」に分けてみた。
日々の報告値はバラつきが大きすぎるので、三日間の平均値を使い、感染報告値(=X)と、前の三日間からの増減値(=Y)の線形近似式を求めた:

     Y = 0.4168 × X + 11.972

この式で算出される「標準的な」増減値を実際のものと比較すると以下:

スピード違反の地域は、違反が大きい順に、デンマーク、カタール、スイス、スペイン、アメリカ合衆国、イタリア以外のEU加盟国、スウェーデン、ノルウェー、ドイツ、オーストリアとなる。

もう少し努力してほしいものです。

この地域別 感染確認数とその増加速度の状況を散布図で表示したのが以下の図です。横軸は対数目盛、点線は線形近似曲線。

(Source Data: WHO)

Covid-19はどれほど怖いのか

報道によると、covid-19の致死率は年代によって大きく変わる。全世代では2.3%だが、50代: 1.3%、60代:3.6%、70代: 8.0%、80代:14.8%だと。

じゃ、私はどうなるのか?と思って、Excelの3次多項式近似で5歳ずつの致死率を概算してみた。

50歳:0.8%、55歳:1.2%、60歳:2.1%、65歳:3.5%、70歳:5.4%、75歳:7.8%、80歳:10.9%、85歳:14.5%

インフルエンザの死亡率は悪いときでも70歳で0.1%ぐらいという話があるので、それと合わせると、covid-19はインフルエンザよりも50倍以上危険ということらしい。 (posted on Facebook at 2020-02-28)

ウイルスを通して見える人々の動き

毎朝、WHOの状況報告を見ていると、ウイルスを通して、世界の文化や人々の動きが見えてきます。

武漢で感染が急速に拡大したのは、春節を控えた忘年会シーズンでした。

中国の会社の忘年会は、全社員を会社持ちで集める大宴会です。地方政府主催の大宴会もあります。社会の各層で毎日のように宴会を開きます。私もほぼ千人規模の大忘年会を中国で開いたことがあります。そこでは、社員の一人ひとりと乾杯を酌み交わすのです。温州商人が代表するような中国全土を股にかけて商売をする人々が、これらの宴会を通してウイルスを中国全土に運んだことも、容易に想像できます。

韓国やイランの状況を見ていると、宗教活動はウイルスに好都合なことが分かります。

ビジネスの面から見ると、自社製品を made in Italy とするためにイタリアに渡った中国企業はたくさんあります。イタリアに次いで感染者が増えているドイツは、習近平の一帯一路の終着点です。

また、最近カリブ海に飛び火しているのは、世界中のリゾート地を年中移動している富裕層の動きのように思えます。この時期、リゾート地は危ないのでしょう。

日本はどうなるのか?

日本では、宴会シーズンはもう終わっています。一対一で乾杯する習慣もありません。ほぼ唯一の宗教行事といえる初詣は、今年はもう終わってしまいました。日本人は欧米人と違って、握手もハグもキスもめったにやりません。中国の通勤列車は、人々の会話や電話で騒々しいのですが、日本では話し声がほとんどしません。お互いに迷惑をかけないことを旨とする日本文化は、ウイルスにとっては想定外なのかも知れません。

リゾート地である北海道や一部のライブハウスが、今、ウイルスの話題をさらっていますが、次の感染の中心地はどこになるのでしょうね。

Covid-19 全世界での感染状況

Covid-19の最近の全世界の感染確認者数の推移をグラフにしてみた。

2月26日に中国とそれ以外の地域の感染確認者数は逆転している(その時点の人数はそれぞれ407と460)。

主な感染地域での感染確認者数の最近の推移は次のグラフになる。

湖北省で収束しているのに対して、大韓民国、イタリア、イランが毎日数百人以上の感染者を報告している。イタリア以外のEU加盟国もイタリアに一週間遅れで急増している。湖北省、大韓民国、イタリア、イランに続くのはどこか?グラフを拡大したのが次の図。

EUに留まらずヨーロッパの各国やアメリカ合衆国で急増している。

戸山43記念誌への寄稿

PDF版: http://mkitaoka.biz/dl/toyama43kinenshi_mkitaoka.pdf

「食事とはお祭り」

2017-01-30北岡正治

フランス人の顔を見て日本の友人を思い出す。そんなことが度々あった。顔かたちや肌、髪の色の違いにも係わらず、どこかそっくりと感じる。日本とフランスは、とても違うようでいて、実は同じなのかもしれない。人はみな同じ?いや、あなたとわたしは違う。私たちは何が違っていて、何が同じなのだろう。

きっかけはフランス留学

人々の多様性を意識しだしたのは、たぶん戸山高校でのことだ。学生、先生を問わず多種多様な人々がいた。そして、そうした人々とどう向き合っていけば良いのだろうと。

高校2年で第二外国語にフランス語を選択し、大学ではその延長上のちょっとした偶然でフランス国費留学の切符を手にした。学部を二年間休学してフランスで暮らし、多くの友人を作った。そこで抱いたのが冒頭の疑問だ。そして、その答えを求めることが、それからずっと続いている。もうすぐ半世紀だ。「私たちは何が違っていて、何が同じなのだろう」

留学から帰って会社に入り、1990年代多くの英米人と仕事をし、2005年から7年間は中国で現地子会社の経営を担当した。そして、多様性に対する疑問に、ビジネスの観点が加わった。

「さまざまな社会集団がある中で、我々のビジネス目標を達成するには、自らをどう組織化すれば良いのだろう」

人々を分類する方法には、国民性のほかに、血液型とか、星座とか、誕生日とか、エニアグラムとか、いろいろな試みがある。でも、例えば血液型。A型、B型、AB型、O型とあり、人々の性格をそう分類できるような気もする。でも、自分はどれにも当てはまるように思えた。それに、年齢とともに変わっていく。これらは結局、人々の分類ではなく、人々のライフスタイルの大まかな分類なのだろう。エニアグラムがそうであるように、自分が無意識に選んでいたライフスタイルは、その拘りが何かを問い続けると、拘りが萎んでライフスタイルが少し変化する。こうした巷の分類論は当り外れがあるし、変化するし、大まかすぎて、ビジネスとか真剣な用途には使えないように思える。

国民性はもっと安定していて、はるかに複雑だ。7年間の中国の会社経営では、国民性の違いにもっと深く取り組まざるを得なかった。こうした、フランス、アメリカ、中国での経験をベースにして、放送大学文京キャンパスで「海外ビジネス展開と異文化対応力」という講座を毎年開講している。

世界の多様性を、ビジネスに応用する話だ。しかし、受講者からは、「この話は日常に使える」と言われる。フランスや中国の文化的価値観を考えていくと、私たち自身の文化的価値観が見えてくる。「日本人とは何なのか」と問いかけ始めるのだ。そして、文化的価値観でも海外に学ぶことがいろいろあるのだと。

日本ではあまり知られていないが、今では、世界100ヶ国以上の国民性が調べられ数値化されている。その内、幸せに関係する指標で、日本は50番目くらいの位置にいる。経済的に豊かなのに、フィリピンやザンビアと同じ点数だ。

それでは、人々がより幸せを感じるように海外で大切にされているのは何なのか。私たちの文化的価値観で、私たちを幸せから遠ざけているのは何なのか。「人々の幸せ」の観点から日本の文化的価値観を見直すとどうなるか。放送大学での私の講座のベースとなっている最近の学術的成果や私の海外経験からたどり着いた気づきなどを以下にまとめてみた。

人々の行動を理解する4つの切り口

出発点は、社会的動物である人間が誰しも持っている「心の理論」なのだろう。それは、私たちが中学・高校時代に心の中に急速に発達させ続けた「人間本性に関する暗黙の理論――行動は思考や感情から生じるという理論は、私たちが人びとについて考える、考え方そのもののなかに組み込まれている」。人の行動からその人の心を判断するこの考えは、きわめて根強く私たちの心に潜んでいる。でも、結婚して子供ができたとき、あるいは、会社で課長になったとき、自分の考え方の変化に私たちは気づく。人の行動は、その人の心だけではなく環境(”立場”はその一つ)に依存しているのだ。そして今では、これを更に進め、人の行動は、「人間性」、「文化」、「パーソナリティ」、そして「環境」という4つの切り口に分けて捉えるとよく理解できる と考えられている。

人間性は世界共通だし、パーソナリティは平均を取れば国々に大きな差はないだろう。すると、その国の幸せ度は、その文化と環境に依存していることになる。日本は経済的に豊かな環境であるのに、なぜ幸せ度が低迷しているのか?それはきっと、幸せを遠ざける文化的要因があるはずなのである。

まず、日本の文化的価値観(=国民性)の特徴とは何かから見ていこう。

国民性における日本の特徴

海外に暮らして、国々の文化の違いに私たちは驚く。オランダ人のヘールト・ホフステードは、若いころインドネシアとイギリスを旅し、これを経験し、エンジニアの仕事に就きながら大学に通い社会心理学を学んだ。そして1970年代、IBMで各国社員の意識調査をする機会に恵まれ、調査結果を統計的に分析し、世界50ヶ国以上の国々の国民性を4次元の数値で表すことに成功した。今では、世界111ヶ国の国民性が6次元の数値として公開されている。

この6つの次元軸にはそれぞれ名前が付けられている。

  1. PDI(Power Distance、権力の格差): 人々の不平等と言う問題に対する社会の解答に関係
  2. IDV(Individualism vs Collectivism、個人主義vs集団主義): 一次集団における個人の位置づけに関係。
  3. MAS(Masculinity vs Femininity、男性らしさvs女性らしさ): 性別役割分担に関係。
  4. UAI(Uncertainty Avoidance、不確実性回避): 未知の未来に対する社会のストレス・レベルに関係。
  5. LTO(Long Term vs Short Term Orientation、長期志向vs短期志向): 人々が時間軸上のどこに重点を置いているか。将来か、過去と今か。
  6. IVR(Indulgence vs Restraint、放縦vs抑制): 生活を楽しむ上での人々の欲求を満たすのか抑制するのかに関係。

例えば、日本の国民性を6次元のデカルト座標で表現すると(54,46,95,92,88,42)であり、フランスと中国はそれぞれ(68,71,43,86,63,48)と(80,20,66,30,87,24)だ。これだけでは意味不明だが、各次元ごとの差をとると少し理解しやすくなる。

フランスと日本の違いは、(14,25,-52,-6,-25,6)であり、中国との違いは(26,-26,-29,-62,-1,-18)となる。これらそれぞれの数値の内で最も大きいものは52と62だ。そしてこれは日本が、フランスとは3番目のMAS(男性らしさvs女性らしさ)の軸で、中国とは4番目のUAI(不確実性回避)の軸でそれぞれ最も大きな違いがあることを示している。レーダーチャートでは図のようなる。フランスや中国にくらべ日本が右下に大きく膨らんでいることに注目してほしい。国民性のレーダーチャートでは、外側に膨らんだ方が良いと言うわけではない。世界平均=中庸は中ぐらいの六角形になり、膨らんでいたり萎んでいるのは中庸からの逸脱なのである。

少し詳しく見てみよう。

MAS(男性らしさvs女性らしさ)軸で数値が小さいフランスは、男性と女性で価値観に差があまり見られないことを示している。フランスでは、男の子も女の子も一緒に遊ぶし、男性が家事をすることにも、主夫になることにもあまり抵抗感がない。これに対して日本は、男性と女性の価値観に世界でもっとも大きな差がある社会なのである。

仕事と家庭はどちらも大切だが、あえて順位をつけるならどちらなのか?世界には様々な文化があるが、日本は飛び抜けて仕事を優先する人々が多い文化だ。留学したフランスで、家庭の食事に関して尋ねたとき、フランス人が答えた一言「食事とはお祭り」がその後ずっと忘れられない。そう、フランス人にとって毎日の食事はお祭りなのだ。だから家族みんなで準備する。料理を作る人だけではない。参加する人もみな、刺激の強いタバコやコーヒーをいったん我慢し、間食を控えお腹をすかして待っている。食事は仕事の前の「腹ごしらえ」ではない。それ自体が大切な 家族のイベント なのである。フランスは、仕事より家庭を重視する人々が多い。その家庭の中心が、家族で囲む食卓なのである。

日本人は世界平均をはるかに越えて仕事を重視する。残業は当たり前だ。でも、これは日本を離れると通用しない。仕事を重視する中国でも、定時になると奥さんから電話がかかってきて、仕事モードが家庭モードに切り替わることはよくあることだ。逆カエルコールだ。そして、これを基本的に尊重しないと、いろいろな問題のタネになる。家族を味方につけることも、中国の経営で大事なことなのだ。海外の会社では、残業なしで業務がまわるように組織を設計しなければならない。

ホフステードが最後に追加したIVR(放縦vs抑制)の軸は、その国の人々が結局幸せなのかどうかを調べたかったのだろう。その国の国民性自体を評価する尺度なのだ。フランスはこの軸で、日本より6ポイント高い。「食事とはお祭り」、暮らし方を日々少し変えるだけで幸せに近くなるのかもしれない。

私が日本文化を見直すきっかけとなったのがこの一言だ。

中国とのUAI(不確実性回避)軸の差を示す典型は、交差点だ。車が通らなくても信号を待つ日本に対して、中国の交差点はどこも無秩序の極みだ。ただ、まったく守らないわけではない。信号が黄色になると、タクシーの運転手は急いで渡ろうとはしない。きちんと止まる。信号の変化のタイミングが、人や自転車や車が飛び出してくる最も危険な瞬間であることを知っているからだ。中国人にルールを守らせたいのなら、守らなかったときに本人がどうなるかをよく分からせることだ。破ると自分に不利になるような制度のもとでは、そのルールは日本以上によく守られる。

UAI(不確実性回避)の数値が小さいことでは、英国も中国に引けを取らない。ほんとうに必要なルールは守るけれど、それ以外のルールが必要とは思っていないし守られるとは限らない。これに対してUAI指標が世界トップクラスの日本では日々刻々とルールが追加される。電車のなかで携帯電話で話すのを、いつ誰が禁止したのだろう。英国人は「なぜダメなの」と訊くし、上海の地下鉄車内で携帯で話すのはごく普通のことだ。大音響でお経を流す人までいる。でも、誰も文句を言わない。この広い中国、とにかく、いろんな人がいる。赤の他人と係わってもろくなことがない。そもそもルールどころか、言葉さえ通じないこともしばしばだ。不確実性は避けられない現実であり、回避するすべはない。むしろいろいろなサクセス・ストーリに自分も挑戦したい。彼らは日々こう思いながら暮らしているのだ。

人に迷惑をかけてはいけないというルールは中国にはない。迷惑という言葉自体が中国にはない。それは迷惑という観念がないことを意味し、説明に苦労する。友人のためにいろいろと便宜を図ることは、友情を大切にする中国では美徳だ。当たり前のことだし、迷惑をかけられたなどとは決して思わない。面倒だったかもしれないが、迷惑だったとは感じない。そう、面倒だったとしても、友人を非難するような情動は道徳的に抑制されているのだ。

「迷惑」を日常的に意識する文化を私は日本以外に知らない。和仏辞典で調べると、agacerが出てくるが、これは、「苦しめられる」ぐらいの状況で使う言葉だ。限度をはるかに越える迷惑は問題にしてもよいが、普段は我慢すべきものなのだ。和英辞典ではannoyになるが、これもフランス語のagacerと同様、毎日使うような言葉ではない。

「迷惑をかける」とか、「迷惑に感じる」とかは中国にはないが、「迷惑をかけない」ということを「人を怒らせない」ということと捉えれば中国にもある。面子だ。中国の面子という観念は、日本のものとはだいぶ違う。ずっと広いし深刻だ。人の面子をつぶせば、「信義にもとる」と社会的非難を浴びかねない。場合によっては、生活基盤を失いかねないほど深刻なのだ。

中国で「人の面子を大切にする」ということは、「その人の気持ちを害さないようにする」こととほぼ同義だ。これは簡単なようでとても難しい。夫婦間で難しく感じている方々も多いのではないか。相手がどんな地雷をどこに仕掛けているかなど、なかなか想像できるものではない。だから、これを社会一般のルールにするのには無理がある。相手限定ということになる。自分にとって大切な人々や社会的影響力のある人々、そうした人々の面子は尊重しなければならない。家族や上司、政府幹部などがこれにあたる。部下も状況によっては該当する。例えば、衆目環視のもとで部下を叱咤激励してはならない。それは部下の面子をつぶすことであり、会社を辞めろという意味に受け取られる。

中国社会で暮らすということは、まわりの人々を分類し、面子を立てるべき人々の気持ちを日々察しながら行動することなのである。これは、中国人にとっても精神的に疲れる話だ。これが上手な人は中国では尊敬されるし、昇進が早い。それに比べると、迷惑をかけなければ取り敢えず暮らしていける日本社会は、むしろ気が楽なのだ。人間関係に無頓着でもちゃんと生きて行ける。気楽とも言えるが、それで良いのだろうか?そんな疑問が残るのが日本社会でもあるのだ。この件は、後でもう一度考えてみたい。

中国の「面子」は会社経営の役に立つ。地方政府と共同で、テレビや新聞、インターネットなどを使って会社を宣伝する。すると、「あの家の息子は良い会社に入った」となる。そして、社員は気持ちがいいし、その面子と同時に会社への帰属意識も上り、よく仕事をしてくれる。

ただ、どんな社会規範でも表と裏がある。行き過ぎに注意しなければならない。

日々刻々とルールを強化する日本を、「日本には優れた一般の人々が大勢いて、いつだって一生懸命。日本は健全な社会だと実感します」と誉めてくれる外国人がいる。とても癒される。でも一方で、日本には内田樹氏が言うように「不自然なほどに態度の大きな人間」が実に多い。怒るとこわそうで偉そうな人々だ。彼らはそう振る舞うことで、自分に有利な空気を作る。議論の内容よりも「そんなことは百も承知よ」と言う雰囲気を作り、物事の判断基準が自分にあると周囲に認めさせる作戦なのだ。

むかし「地震、雷、火事、おやじ」と言われ、怒りっぽいおやじは日本で怖いものの一つだった。でも今や、家庭での権威は失墜し見る影もない。しかし、会社や社会で権威を与えると、元気を取り戻す怒りっぽいおやじがまだ多い。

「迷惑」も「空気」も「人を怒らせたくない」という私たちの素朴な心の上に作られた日本特有のフィクションなのだ。

一方、面子を大切にする中国では、不自然なほど自尊心が大きな人々がいて人々を困らせる。自尊心自体は世界共通だが、その扱い方は文化によって異なる。日本人の場合、自尊心は自制的なのが普通だ。それは周りに迷惑をかけてはならないと常日頃思っていることの裏返しだ。しかし、中国ではそのような歯止めがないから、自尊心は大きめが普通になる。そして、大き過ぎる自尊心でも周りから尊重されるから、ほうっておくと際限なく肥大化しうる。そうした人が日本よりも多い。そして、困る事態になると、「梯子を渡して少しずつ下りてもらう」のだという。こんなところにも文化の蓄積がある。

有能な社員の気持ちを大切にすること、会社に誇らしさを感じさせること、そうしたことが、中国では経営の重要課題である。反対に、「中国人社員をやめさせる方法はいくらでもある。例えば、面子をつぶせばよい」と中国の悪友に教えられた。善し悪しは別として面子は、中国社会で大切な観念なのである。

日本の「迷惑」も中国の「面子」も、「人を怒らせたくない」という東アジアの人々になぜか共通する強い感情に則して作られたルールなのだと思う。そう言えば、朝鮮文化の(ハン)も、怒りの感情を歴史を千年も遡ってふつふつとたぎらせるというから恐ろしい。もしかすると私たち東アジアの人々は沸点の低い人種なのかもしれない。仏教が伝わって2,000年も経つのに、「怒り」の情動を文化的にまだまだ上手に抑制しきれていない。いったいいつになったら私たちの社会は大人になるのだろう。

UAI(不確実性回避)指標が大きいことで有名なフランスでも、たしかに怒る人はいる。でも、そんな怒っている人に対して使える便利な常套句がある。それは、C’est pas grave!だ。「事態はそんなに深刻じゃないわ」の意味で、言外に「怒るようなことじゃないのよ」と匂わせる。何度も必要なだけ繰り返して使える。そう何度も言われると、「それもそうだ」と少し冷静になる。

「迷惑」も「面子」も「恨」も、条件が揃えば怒ってもよいというあぶないルールだ。百歩譲って怒りを許すとしても、それは、「今、現在、深刻なとき限定」にして欲しい。ちょっとした違和感とか、過去に遡ってとか、この国のためとか、地雷を踏まれたためとか、怒るネタを増やさないで欲しい。私たちお互いの幸せのために。「今、現在、深刻」でないのなら、感情を抜きにして冷静なときにお話しすれば良いのだから。

日本の国民性の最大の特徴は、MAS(男性らしさvs女性らしさ)とUAI(不確実性回避)の二つの軸で世界トップクラスに位置していることである。男女の役割や社会規範に対するこの二つの拘りは、ともに日本に経済的繁栄をもたらした。しかし、人々に幸福をもたらしたとは言えない。海外で仕事をするとき、最も邪魔をするのは、相手国の文化の問題ではない。長期に根強く残る問題の背後には、世界基準で明らかに極端なレベルにある日本人のこの二つの拘りを疑ってみるとよい。そして、これは海外に限らないのである。このことについては、あとでまたもう少しふれよう。

人間性

ホフステードの研究成果は、世界の国々の文化的価値観の違いがどの辺りにあるかを6次元空間にプロットして明らかにしたが、人々の行動の背景にある心の動きを科学的に明らかにしたわけではない。

世界の人々に共通する心の動き、つまり人間性とは何かが明確になってきたのは、21世紀に入ってからのことだ。そしてこの飛躍的な進歩を支えた人々の多くは私たちと同年代の哲学者くずれだ。頭のなかで堂々巡りしがちな哲学では、人間とは何かに正確に答えられない。そのため、人の心を科学的に研究する心理学や、ゴリラやチンパンジーの心を研究する進化生物学に、この人々はずっと答えを求め続けてきたのである。

ロビン・ダンバーは霊長類を研究し、そのムレの大きさが、脳の新皮質比と比例することを見いだした。そして、脳拡大の究極要因は集団サイズ拡大だとする社会脳仮説を提唱した。大きな集団の方が、生き残る確率が大きくなる。その大きな集団を維持するには、人間関係が安定していた方が有利だ。そして人間関係を安定化するには、脳へのいろいろな機能追加が有効だった。その結果、脳は段々大きくなった と。

この理論は、二つのことを言っている。数億年にわたる進化の歴史の大部分を共有するヒトと霊長類は、脳の多くの機能を共有している。そして、その蓄積の上で数100万年の時間をかけて、いくつかの固有の機能がヒトに加わったと。

『しあわせ仮説』を著したジョナサン・ハイトは、このことを「心とは、象にのる象使いである」と表現している。「人は合理的な動物ではなく、感情的な動物の上に”小さな理性“が乗っているだけの動物だ」とも。

人間の道徳観は、カントが言うような理性ではなく、この感情的な動物の部分に存在し、その多くは霊長類と共通している。そう今では考えられている。ハイトによると、道徳がらみの情動は非常に多く、文化を越えて共有されている。そしてそれらを相関関係で括ると以下の5種になる:

  1. 傷つけないこと 他人に苦痛を感じさせたくない。共感、思いやり
  2. 公平・互恵   そんなのずるいよと言う感覚、公平さを好む感覚
  3. 内集団への忠誠 自分の属する集団の義務遂行を大切に思う
  4. 権威への敬意 社会秩序のために上下関係などを尊重
  5. 神聖さ・純粋さ 肉体的・精神的な純潔を求める

最初の4つは、直感的に理解できる。最後の「神聖さ」は、その逆が「嫌悪」 だと知れば理解されるだろう。そしてこれら5種の感情が、どれも集団を強くすること、大きくすることに係わっていることも理解しやすいだろう。神聖さと集団の関係は少し分かりにくいかもしれない。しかし、文化の違いに嫌悪感を感じる時があることを思い出してほしい。他集団に対して嫌悪感を感じることが、自分の属する集団を守るために、進化論的な時間軸を通して有効だったのだ。

これら5種の道徳がらみの情動は、その多くが人どころか霊長類にも共通に見られるのである。それでは、この道徳基盤の上にのった新たな機能「小さな理性」とは、いったい何なのだろう。

それは、「強化された心の理論=省察力」だとダンバーは考えている。言語もその延長上に発達した と。

自分の心を省み、他者の感情や信念にも考えを巡らせる能力(=心の理論)は、サルや鳥類にも見られるが、これを再帰的にできるのは、チンパンジーとヒトだけだ。しかもヒトは成人になると、この能力がチンパンジーよりもはるかに発達する。例えば、以下のようにだ:

「私は彼女が好きだ」(1回):サルや鳥類でも
「彼女は私が好きだ」(2回):チンパンジーとヒトの4~5歳児
「彼は私が彼を好きだと勘違いしている」(3回):成人。この文の意味を理解できなければ成人とは言えない。
「彼女が僕を好きだと僕が勘違いしていると彼女が思っているが、これは僕の作戦だ」(4回):段々人間的になる。

ほとんどの成人は、5回まで再帰的に考えられる。この「強化された心の理論=省察力」で、成人は目に見えないものに気づき、考え、その結果で行動を選択できるのだ。

国民性における東アジアの特徴

このすべての成人に共通する小さな理性と5種類の道徳感情を使うと、価値観の異なる人々が私たちとどう違っているのかをより正確に理解できる。

中国の国民性で当初理解に苦しむものとして、PDI(権力の格差)の大きさがある。日本はこの指標で54と中程度なのに対して、中国はこの指標が80ととても大きい。それは以下を意味している:

  • 力は正義に勝り、権力を握るものは常に正しく善良
  • 不平等は一貫していないと問題だ

例えば、権力を持てば持つほど、富を持つのは当然で、逆に持っていないのはおかしい、隠しているにきまっている。

そう考える中国では汚職が汚職を呼び、その額が桁違いなる。この指標の正しさは毎日のニュースを見れば明らかなのだ。そして、公平さを好む感覚が中国人には欠如しているのではないか といぶかしく思うのである。

PDI(権力の格差)の大きさは、私たちが生来持っている「不公平」という強い情動がないことを意味しない。それは、逆に、この「不公平」という強い情動を抑える何かをその文化が持っているということを意味するのである。同じ仕事なのに待遇に差があると強く「不公平」と感じるが、「差をつける基準」が明確であれば情動は抑制され、人間性としては不平等でも文化的には道徳的となる。努力すれば、差別される側から差別する側に移れるかもしれないという訳だ。こうした差をつける基準を考えることが中国人は好きだし得意だ。評価基準が明確になれば、人々はそれぞれに対策を考え、よく働くのである。不公平な社会であるからこそ、公平とは何かに人々は拘っているのである。

PDI(権力の格差)の大きな文化は、ユーラシア中央部に広く分布している。中国、ロシア、インド、アラブ諸国などが代表例だ。エマニュエル・トッドは、「共同体家族」という家族類型が、長い時間をかけてユーラシア全体に伝播したと考えている。権力の格差は、このユーラシアで優勢な共同体家族を基本とする国々で大きい。

日本や欧州はユーラシアの辺境に位置していたので、この伝播の範囲外となった。そして、辺境には、人類の原初的な家族類型が変わらずに残ったと言う。日本や欧州には、狩猟採集民だったころの比較的平等な社会の痕跡がまだ残っているのだろう。

大きな「権力の格差」は「男性らしさ」と同様、公平さを強く好む人間性と矛盾している文化的価値観だ。「不公平」だという情動とバランスさせる強力な何かがないと、そしてそれが人々を納得させるものでないと、社会の不安定要因となる。中国が「一つの中国」に拘るのはこれも一つの要因だ。強大な権力で統一を維持しないと、中国はバラバラになって何百年という単位で相争い始める。そして、人口は激減する。権力の大きな格差は、まだましだ。そう信じられている。

東アジアの国々と日本との国民性で大きく異なるもう一つの軸は、IDV(個人主義vs集団主義)だ。日本のIDV指標は46で世界平均の44とほぼ同じだ。PDI同様に、ここでも日本は世界の中庸にいるのだが、中国・韓国・台湾をはじめとするアジア諸国の平均は20でずっと低く、集団主義的だ。個人主義的な欧米の国々のIDVは高く、北西欧の平均は61だ。日本はその中間に位置している。

集団主義文化の人々は、自己について語るときWeを使いがちだ。家族の立場からものを考えるように育っている。彼らは家族という集団に生まれながらに属していて、この集団に忠誠を誓う限り生涯 安全を保証されると考えている。家族は、普通核家族ではなくもっと大きな単位だ。そして、もちろん、大人になれば集団のために働くし、老いた人々の面倒をみる。大人たちは、そうした集団の中での明確な役割と義務感を持っている。子どもたちはそうした大人たちを模範として成長し、集団主義的な価値観を持つことになる。この文化では、家族内での義務遂行や上下関係が尊重される。

個人主義文化の人々は、早くから自立するように育っていて、自己について語るときIを使うWeはまず使わない。親から自立している大人たちを模範として大人になり、自分も自立して家を離れていく。そして、老いた親の面倒をみることもない。家族内での義務遂行や上下関係の尊重よりも、人々の自由を大切にする文化なのである。

日本はこの辺りがはっきりしない。子どもを自立させたいのか、ずっと一緒に暮らしたいのか。

米国のナショナルジオグラフィック協会がIBMなどと共同で始めたGenographic projectは、世界中の人々に対して、彼らの祖先に関する情報を遺伝子解析により提供してくれる。$250かかるこのサービスによると、土佐藩の士族の血を引く私の母の母系祖先の2%は、なんとアメリカ原住民だ言う。アメリカ原住民も2万年前にはアジアにいて、祖先が私と共通だったのだ。実際、同じ遺伝子変異を持つ人々が、チリ、メキシコ、ペルーなどに実際生活していて、ネットを通じてメッセージを交換できる。同じ遺伝子変異を私と共有する人々が暮らすこれら南米3ヶ国のIDV平均は23で、アジア同様に非常に低く、とても集団主義的だ。

日本人も昔はもっとずっと集団主義的だったのだろう。家族のために吉原に売られていくなどとは、個人主義的になった現代日本では考えられない。しかし、昔は家族の立場で考える訓練がされていたから、このような悲哀が続いた。集団主義指標の強い国々では、社員は家族の考え方に強く影響されるし、いずれ老親や多くの家族の面倒をみる立場にある。社員の家族にとって、社員が働く場は人ごとではない。吉原の話は極端だが、普通のビジネスでも経営で家族を味方につけることは大切な事柄だ。

明治以降、日本人は、幼いころは親に倣って集団主義的文化を習得したが、自己が確立する青年期には、欧米の個人主義的な文化に憧れその洗礼を強く受ける。その結果、自立志向の強くない「個人主義者」に育つのだ。日本人は、個人主義か集団主義かは個人の主義主張の違いだと勘違いしているが、それは、大人になって自立するか、家族の一員として働くかが究極的な違いなのである。個人の考え方は環境(立場)に大きく影響される。個人主義か集団主義かは、その典型例だ。引きこもりや、いわゆるパラサイト・シングルが日本に多いのは、この自立を学ばない幼少期と個人の自由に憧れる青年期の矛盾した文化的環境のなせるわざなのではないか。少なくとも、自立志向の強い普通の個人主義者が育つようには日本文化はできていないのだ。

そのように自立志向の強い個人主義者が育つような社会が理想なのかというと、よく分からない。私たちは、さまざまな苦労をして子どもを育て、育ってしまうと巣立ってしまい、寂しさを感じる。それが人生なのかもしれない。でも、私たちはこのような状況にあまり慣れていない。何百万年も集団主義で生きて来た私たちの文化には、この寂しさを乗り越える智慧がまだ十分には蓄積されていないのだ。どう対処すればよいか、私たち自身で考えなければならないのだ。

ホフステードの第5の軸であるLTO(長期志向vs短期志向)では、日本は東アジアの国々と同様に、世界的に見て極端に長期志向だ。それは、人々の心の重点が将来に向かう性向が極めて強いことを意味する。ドイツのようにヨーロッパでもこの指標が大きい国もあるが、私たち東アジアの国々ほどではない。そしてこの性向は、私たちの幸せ度を損なう一因でもある。実際、明日のことにまで、しなくてもよい心配をすれば、幸せは遠ざかる。もしかすると、これが私たちの沸点を下げている主因なのかもしれない。先々を心配する心が、私たちを不安定にする。東アジアでは、日々、心配なしには過ごせない性分が心の標準なのだ。

先のことに思いを馳せるのは一概に悪いことではない。心配するからこそ人々はよく働く。ホフステードが文化的価値観の5番目にこの軸を追加したのは、東アジアの経済発展とこの価値観が強い相関を示していたことに着目したからだ。そして、この尺度は宗教が関係していると彼は考えている。

ヒトと言う動物が大きな安定した社会集団を作るため獲得した小さな理性は、アレコレ考え過ぎていろいろな問題を引き起こすという悪い癖がある。これが、社会集団として見たときの小さな理性のデメリットだ。だから、宗教なり文化なりでこれを適切に抑制することは理に適っている。

毎週、修禅寺に通って仏教講話を聞いてくる妻によると、108あるという煩悩は、実は一つであり、それは怒りだという。そう言えばそうかもしれない。怒りは、キリスト教でも七つの大罪の一つだ。社会の中に生じがちな怒りの情動は、集団内のトラブルの主な原因であり、人々はこれを宗教によって抑えようとしたのだ。しかし、宗教の専売特許というわけではない。フランス語の常套句”C’est pas grave!” 「事態はそんなに深刻じゃないわ」がそうだったように、日常的な緊張局面を文化的努力でほぐすこともできる。そう言えば、フランス語のもう一つの常套句”C’est la vie.”「人生ってそんなものよ」も、自らに降りかかった不幸な出来事に、つい大袈裟になりがちな私たちの心に歯止めをかけてくれる。いわば、心の暴走に対する文化的な防壁なのだ。

小さな理性の暴走を防いで集団を安定化させるのが信仰の一つの役割なのかもしれない。そうだとすると、LTOの極端に大きな東アジアでは、信仰が効果的になされていないということになる。実際、私たち東アジアの仏教の教義は奥深く難解だ。悟りを開かないと究極の幸せは得られないと思っている。人々は煩悩からなかなか抜け出せない。アッラーのように、ブッダも「明日のことを考えるときには必ずコレコレを唱えなさい」とかの具体的な指針を与えるべきだったのかもしれない。教義を説く宗教者がまだまだ怠慢なのかもしれない。あるいは、イスラムやクリスチャンが毎日ないし毎週宗教活動に従事しているのに対して、私たちは忙しさにかまけて、年に幾度かしか仏に向き合わない。このことが問題なのかもしれない。昭和初期から始まったラジオ体操の番組は、体操を日課とする文化を日本にもたらした。これで我々は健康になったが、今は、心の健康も大切だ。だから、禅のエッセンスである「マインドフルネス」を、ラジオ体操のように毎朝放送するのが良いのかもしれない。毎朝の星占いもいいけどれど、健康のためには日々の心の体操も必要だ。

私にブッダを非難する気はさらさらない。神様は、東洋では私たち同様に象に乗っているが、西洋では象から離れ唯一の神として天高く君臨している。そして、私たちの小さな理性の使い方を強く制限し、そうすることで私たちに幸せをもたらす。でも、同時にその一神教の原理主義は今も戦争をもたらし続けている。

母系遺伝子変異を私と共有する南米の国々のLTO(長期志向vs短期志向)は27と日本よりもはるかに低い。IVR(放縦vs抑制)は測定値がない国もあるので正確には言えないが、中南米は、世界で見ると北・西欧、南欧の次にIVRが高い地域である。つまり、人々は日々幸せを感じて暮らしている。彼らは数百年前スペイン人に征服され、土着宗教の一部を残しながらキリスト教に改宗した。過酷なスペイン人統治のもと、宗教に強くすがったのだろう。現在、人口の93%がキリスト教徒である。宗教心が強いと、人々の心の重点は過去の伝統と現在に向かい、将来にはあまり向かわない。このことがLTOを平均13と世界一低くし、する必要のない心配事から守っている。

逆に、ソ連の影響下にあったロシアや東欧の旧共産圏の国々は、LTOは平均63と高く、IVR(放縦vs抑制)が非常に低い。世界平均45のIVR(放縦vs抑制)指標は、これらの国々ではなんと平均23だ。それは、人々の暮らしが自分の思うようにならないと感じていることを示す。ソ連崩壊による経済的な困難が一因でもあるのだろうが、共産主義が長く反宗教的だったことも大きく影響しているのだろう。

宗教活動なり、C’est pas grave!とかの常套句の活用なりで、日々の煩悩や怒りを少なくすることができるし、それにより幸せ度が高まる。宗教を信じるか信じないかは人々の自由だ。しかし、幸せのためには、小さな理性が余計な心配をしないようにする何らかの強い精神的枠組みが私たちの日々の生活に必要なのだ。この枠組みが東アジアでは弱く、人々はあくせく仕事をするわりには、幸せが遠い。人間は頭で思っているほどには強くないのだ。

すべての人々に普遍的な情動は、人間性の主要な要素だ。そして、この普遍的な情動を基盤にしながら、私たちが自らが属する集団を組織化するために共同で作りあげてきたのが文化的価値観なのである。それは、集団の中に生起する相反する情動を抑える智慧あるいは妥協――言い換えれば小さな理性の使い方に関するガイドラインの体系なのである。

異文化を理解するということは、

  • 特定の状況で人々に生起する(世界のすべての人々が共有する)情動と、
  • それに対応する文化的ガイドラインに照らして理性が行う判断、その結果としての行動に、
  • 自分でも納得し、共感し、必要であれば自分もそのように行動すること

なのである。

異文化対応力(Cultural Intelligence)

異文化理解の基本的な原理は説明した。でも、文化の違いは実にさまざまだ。それらモロモロを習得するにはどうしたらよいのだろう。

文化的知性とも翻訳されるCultural Intelligenceは、社会心理学者クリス・アーリー等により、2004年にハーバード・ビジネス・レビュー上に発表された。多種多様な文化の違いを学ぶ能力を、人間はみな生まれながらに持っている。具体的にはコレコレだとこの理論は主張する。

学びとることができるのは、考えてみれば当たり前だ。私たちは日本文化を子どもの頃にすでに学びとっているのだから。問題は、コレコレとは何々で、文化を二つ以上学びにくくしている仕組みが何なのかだ。

学びにくくしている仕組み、その入口は、異文化に接していて時折感じる違和感だ。この違和感は放置すると繰り返されて嫌悪感に変わる。異文化接触を夫婦関係に置き換えると、あなたにも心当たりがありはしないだろうか。先にふれたように、日本には、男女間で価値観に比較的大きな段差があって、注意しないと躓いてしまう。

日本文化の「男性らしさ」の極端な大きさは、不公平という強い人間的な情動と常に闘うことになる。社会が豊かになればなるほど、なぜ不公平が許されるのかと感情的になり、見直される運命なのだ。日本では、男女はむしろ異文化と割り切って、きちんと対策を打つべきなのだ。

異文化を学ぶには、まず違和感に気づき、その違和感が嫌悪感に変る前に好奇心に切り替えることだ。そして少し寛容になって違いを楽しむことだ。まず気づき、次に相手が自分やその時の状況をどう捉えているのかなどよく省察する。そして、今までの自分の行動スタイルを勇気を少し出してちょっと変えてみる。その結果、効果があったかどうか観察し、効果がなければ、またよく考えて行動を修正する。これを毎日繰り返すのだ。

子どもにとって文化の習得は、大人になりたいという強い憧れと親のしつこい毎日の躾けが原動力となっている。これに対して、大人にとっての新しい文化の習得は、自分自身を日々変えていくことを意味し、ダイエットや禁煙と同様に、継続するのが実はとても難しい。

だから、「気づき」や「省察力」というメタ認知のほかに、動機を明確にして継続してやる気を出すことや、行動を慎重に変える小さな勇気、そして相手文化に関する知識の蓄積が必要になる。これら4つ能力を使って改善サイクルを回し続けることになる。これが、コレコレの概要だ。

私たちは幼い頃、周囲の大人たちの行動を鵜呑みにしてきた。そしてそれが変わらないように、念のために嫌悪感で封印した。しかし、時代の進歩に合わせて、経済的な豊かさだけでなく幸せも大切だと思うなら、この封印を少し解いて中身を少し書き換えれば良いのだ。

生まれ持った文化的価値観は、いわばスマホの設定の省略値だ。自分の好みに合わないときは、カストマイズすれば良い。ここでは、その方法をお話しした。

幸せに近づくための心のカストマイズ

私たちの遺伝子は、数百万年という進化の歴史を通して、狩猟採集民の生活に最適化されている。それは、複数の家族が連携する集団主義的で、比較的平等な社会だったと考えられている。そして、つい一万年前から始まった文明は、「より多くの人間が生き延びていけるようにしたが、その一方で疫病を引き起こし、男女間や社会的な階級間に不平等を生み、強権的な支配者による専制という害悪をもたらした」。その中で、人々は、幸せを求めてさまざまな工夫をしてきた。

フランス人と中国人は、それぞれ2,000年前のローマ帝国と漢帝国の末裔だ。一方は多様性を尊重する個人主義と信仰を軸として、他方は中央集権を維持する権力を軸として発展してきた。

フランス文化は、男女の愛を第一優先にする社会とはどんなものか、家庭を大切にするには具体的にどうすれば良いのか。そうしたことを教えてくれる。

権力と富に非常に大きな格差のある中国では、厳しい生活のなかでも幸せに生きるためには何が最低限必要なのかを教えてくれる。それは、家族の強い絆であり、友情の大切さだ。そして、周囲の人々の気持ちを日々察しながら生きることが暮らしの大原則なのだ。

「野生の思考は日本にこそ生きている」と言われる。狩猟採集民の比較的平等で集団主義的な価値観が日本文化の基層に残っている。そして、一万年以上も続いた縄文の部族社会以来の伝統が、神風に守られて分厚い地層をなしていた。そしてそこに、唯一、戦後憲法が自由平等という楔を打ち込んだ。

私たちは、敗戦によって自由と個人主義を日本なりに受け入れたが、欧米的な自立と信仰の精神は選択しなかった。日本は復興し経済的に繁栄したが、人々の幸せという視点では世界で中程度のレベルだ。戦後の繁栄はいったい何のためだったのかと問われると、はっきりと答えられない。私たちは何を忘れてきたのか。

戦後日本の社会では、末期ガン患者が、「家族に迷惑をかけたくない」と変なことを言う。「迷惑」という嫌悪を伴う観念が、最も大切な人間関係である家族の中に普通に入り込んでいる。「面倒をかけたくない」ならまだ分かるが、家族とはお互いに面倒をかけ合うものなのだ。助け合うことが幸せの源泉であり、そう生きていくのが家族なのだ。「迷惑をかけなければ何をするのも自由だ」なんてことはない。人生とはそんな気楽なものではない。家族を悲しませてもいけないし、怒らせてもいけない。面倒を迷惑どころか面倒とも思わずに助け合うのが家族なのである。「迷惑をかけない」というルールは、家族のような濃い人間関係には相応しくない。もっと希薄な人間関係でのルールなのだろう。義理人情は古いと言われるかもしれない。でも、私たち人間は、何百万年もそうした家族の中で生きてきた動物なのである。家族を離れては幸せになれない。私たちの遺伝子はそのように進化してきている。

現代の日本は、人々の同質性が極めて高く、違和感を感じたら取り敢えず「迷惑だ」と誰でも怒れる比較的平等な社会だ。そして、役割や社会規範という文化的制約が生活のさまざまなところにまで浸透している。これは社会を効率的にする。しかし、社会秩序や効率化のために、「嫌悪」や「怒り」や「・・・べき」を優先すると、人々の幸せは遠のいてしまう。

最近はやりのアドラー心理学は、アドラーの育ったオーストリアの国民性がベースとなっている。そのオーストリアは、文化的価値観では比較的日本に近い国である。そして、近いにも係わらず幸せ度(IVR指標)で日本より21ポイント(50%)も高い。これが意味するのは、日本の国民性と幸せは実はそう遠くないということなのかもしれない。

人々が幸せになるためには何が大切なのか。それをアドラーはGive & Giveだという。

愛と家庭、家族の絆、友情。そうしたGive & Giveを基本とする人間関係をまず大切にすることだ。間違ってもGive & Takeの関係と取り違えたり、「嫌悪」や「怒り」の感情をこの大切な人間関係に持ち込まないことだ。このちょっとした努力が私たちに足りていなかっただけなのかもしれない。

そして次に、家族の外へも広げていくことだ。嫌悪や怒りの感情に気づいたら、そこに自分の悪い癖があるのかも知れないと疑ってみることだ。肩を怒らせずに、C’est pas grave!「事態はそんなに深刻じゃないんだから」くらいののりで。そして、私たちが幼い頃、無批判に身につけて心の中に今も沈殿している時代遅れの文化的価値観を、異文化対応力を使って、日々の暮らしの折々に少しずつ慎重に見直していくことだ。「嫌悪」を好奇心に変え、「怒り」そして「・・・べき」を取り敢えず横において、地雷を埋めた理由をもう一度よく思い出し、取り越し苦労はほどほどにし、自分と周りの人々の幸せを第一にし、冷静さを取り戻して、少しずつそして慎重に、自分の心を今の自分の好みに合わせてカストマイズしていくことだ。

(おわり)

演習問題

  1. 家族や友人にたのまれてやったこと、やらなかったこと、面倒と感じたこと、あるいは、自分の役割ではないと感じたこと、そうしたことを思い出し、相手になりきって自分を見つめ直してみよう。そして、より良き家族、より良き友人になるために、自分の役割を少し拡大するのも良い作戦なのかもしれない。そして,小さな勇気を出して、今度は自発的にそれをやってみる。そして、それを習慣にして、ライフスタイルを変えていく。
  2. 友人と一緒にゴルフコースをまわって、前の組が遅いと感じたら、いらいらせずに好奇心をいだこう。遅い人も速い人も、いろいろな人たちがプレーする。ゴルフ人口の裾野が広がっていくことは良いことかもしれない。せっかくの余暇、自分をどう変えれば楽しめるか、よく考えてみる。楽しむために、まず笑顔を作るのがよいのかもしれない。
  3. 電車で、若い人が席を譲ってくれなかったときは、日本の文化が少しずつ変化しているのかもしれないと考えてみる。他人の文化は変えられないし、文化に関しては必ず若い人が正しい。30年後、生き残るのは彼らの文化だ。そして、坐るためには、次回はどうすれば良いかを考えてみる。最近はいろいろな路線がある。選択肢が多い。乗車駅とか、乗る時間とか、使う路線とか。グリーン車や指定席を増やす方が、社会としてはより良い選択なのかもしれない。

戸山高校卒業50周年文集向けに、『異文化対応力』の紹介記事を書きました

「食事とはお祭り」

2017-01-30北岡正治

フランス人の顔を見て日本の友人を思い出す。そんなことが度々あった。顔かたちや肌、髪の色の違いにも係わらず、どこかそっくりと感じる。日本とフランスは、とても違うようでいて、実は同じなのかもしれない。人はみな同じ?いや、あなたとわたしは違う。私たちは何が違っていて、何が同じなのだろう。

きっかけはフランス留学

人々の多様性を意識しだしたのは、たぶん戸山高校でのことだ。学生、先生を問わず多種多様な人々がいた。そして、そうした人々とどう向き合っていけば良いのだろうと。

高校2年で第二外国語にフランス語を選択し、大学ではその延長上のちょっとした偶然でフランス国費留学の切符を手にした。学部を二年間休学してフランスで暮らし、多くの友人を作った。そこで抱いたのが冒頭の疑問だ。そして、その答えを求めることが、それからずっと続いている。もうすぐ半世紀だ。「私たちは何が違っていて、何が同じなのだろう」

留学から帰って会社に入り、1990年代多くの英米人と仕事をし、2005年から7年間は中国で現地子会社の経営を担当した。そして、多様性に対する疑問に、ビジネスの観点が加わった。

「さまざまな社会集団がある中で、我々のビジネス目標を達成するには、自らをどう組織化すれば良いのだろう」

人々を分類する方法には、国民性のほかに、血液型とか、星座とか、誕生日とか、エニアグラムとか、いろいろな試みがある。でも、例えば血液型。A型、B型、AB型、O型とあり、人々の性格をそう分類できるような気もする。でも、自分はどれにも当てはまるように思えた。それに、年齢とともに変わっていく。これらは結局、人々の分類ではなく、人々のライフスタイルの大まかな分類なのだろう。エニアグラムがそうであるように、自分が無意識に選んでいたライフスタイルは、その拘りが何かを問い続けると、拘りが萎んでライフスタイルが少し変化する。こうした巷の分類論は当り外れがあるし、変化するし、大まかすぎて、ビジネスとか真剣な用途には使えないように思える。

国民性はもっと安定していて、はるかに複雑だ。7年間の中国の会社経営では、国民性の違いにもっと深く取り組まざるを得なかった。こうした、フランス、アメリカ、中国での経験をベースにして、放送大学文京キャンパスで「海外ビジネス展開と異文化対応力」という講座を毎年開講している。

世界の多様性を、ビジネスに応用する話だ。しかし、受講者からは、「この話は日常に使える」と言われる。フランスや中国の文化的価値観を考えていくと、私たち自身の文化的価値観が見えてくる。「日本人とは何なのか」と問いかけ始めるのだ。そして、文化的価値観でも海外に学ぶことがいろいろあるのだと。

日本ではあまり知られていないが、今では、世界100ヶ国以上の国民性が調べられ数値化されている。その内、幸せに関係する指標で、日本は50番目くらいの位置にいる。経済的に豊かなのに、フィリピンやザンビアと同じ点数だ。

それでは、人々がより幸せを感じるように海外で大切にされているのは何なのか。私たちの文化的価値観で、私たちを幸せから遠ざけているのは何なのか。「人々の幸せ」の観点から日本の文化的価値観を見直すとどうなるか。放送大学での私の講座のベースとなっている最近の学術的成果や私の海外経験からたどり着いた気づきなどを以下にまとめてみた。

人々の行動を理解する4つの切り口

出発点は、社会的動物である人間が誰しも持っている「心の理論」なのだろう。それは、私たちが中学・高校時代に心の中に急速に発達させ続けた「人間本性に関する暗黙の理論――行動は思考や感情から生じるという理論は、私たちが人びとについて考える、考え方そのもののなかに組み込まれている」。人の行動からその人の心を判断するこの考えは、きわめて根強く私たちの心に潜んでいる。でも、結婚して子供ができたとき、あるいは、会社で課長になったとき、自分の考え方の変化に私たちは気づく。人の行動は、その人の心だけではなく環境(”立場”はその一つ)に依存しているのだ。そして今では、これを更に進め、人の行動は、「人間性」、「文化」、「パーソナリティ」、そして「環境」という4つの切り口に分けて捉えるとよく理解できる と考えられている。

人間性は世界共通だし、パーソナリティは平均を取れば国々に大きな差はないだろう。すると、その国の幸せ度は、その文化と環境に依存していることになる。日本は経済的に豊かな環境であるのに、なぜ幸せ度が低迷しているのか?それはきっと、幸せを遠ざける文化的要因があるはずなのである。

まず、日本の文化的価値観(=国民性)の特徴とは何かから見ていこう。

国民性における日本の特徴

海外に暮らして、国々の文化の違いに私たちは驚く。オランダ人のヘールト・ホフステードは、若いころインドネシアとイギリスを旅し、これを経験し、エンジニアの仕事に就きながら大学に通い社会心理学を学んだ。そして1970年代、IBMで各国社員の意識調査をする機会に恵まれ、調査結果を統計的に分析し、世界50ヶ国以上の国々の国民性を4次元の数値で表すことに成功した。今では、世界111ヶ国の国民性が6次元の数値として公開されている。

この6つの次元軸にはそれぞれ名前が付けられている。

  1. PDI(Power Distance、権力の格差): 人々の不平等と言う問題に対する社会の解答に関係
  2. IDV(Individualism vs Collectivism、個人主義vs集団主義): 一次集団における個人の位置づけに関係。
  3. MAS(Masculinity vs Femininity、男性らしさvs女性らしさ): 性別役割分担に関係。
  4. UAI(Uncertainty Avoidance、不確実性回避): 未知の未来に対する社会のストレス・レベルに関係。
  5. LTO(Long Term vs Short Term Orientation、長期志向vs短期志向): 人々が時間軸上のどこに重点を置いているか。将来か、過去と今か。
  6. IVR(Indulgence vs Restraint、放縦vs抑制): 生活を楽しむ上での人々の欲求を満たすのか抑制するのかに関係。

例えば、日本の国民性を6次元のデカルト座標で表現すると(54,46,95,92,88,42)であり、フランスと中国はそれぞれ(68,71,43,86,63,48)と(80,20,66,30,87,24)だ。これだけでは意味不明だが、各次元ごとの差をとると少し理解しやすくなる。

フランスと日本の違いは、(14,25,-52,-6,-25,6)であり、中国との違いは(26,-26,-29,-62,-1,-18)となる。これらそれぞれの数値の内で最も大きいものは52と62だ。そしてこれは日本が、フランスとは3番目のMAS(男性らしさvs女性らしさ)の軸で、中国とは4番目のUAI(不確実性回避)の軸でそれぞれ最も大きな違いがあることを示している。レーダーチャートでは図のようなる。フランスや中国にくらべ日本が右下に大きく膨らんでいることに注目してほしい。国民性のレーダーチャートでは、外側に膨らんだ方が良いと言うわけではない。世界平均=中庸は中ぐらいの六角形になり、膨らんでいたり萎んでいるのは中庸からの逸脱なのである。

少し詳しく見てみよう。

MAS(男性らしさvs女性らしさ)軸で数値が小さいフランスは、男性と女性で価値観に差があまり見られないことを示している。フランスでは、男の子も女の子も一緒に遊ぶし、男性が家事をすることにも、主夫になることにもあまり抵抗感がない。これに対して日本は、男性と女性の価値観に世界でもっとも大きな差がある社会なのである。

仕事と家庭はどちらも大切だが、あえて順位をつけるならどちらなのか?世界には様々な文化があるが、日本は飛び抜けて仕事を優先する人々が多い文化だ。留学したフランスで、家庭の食事に関して尋ねたとき、フランス人が答えた一言「食事とはお祭り」がその後ずっと忘れられない。そう、フランス人にとって毎日の食事はお祭りなのだ。だから家族みんなで準備する。料理を作る人だけではない。参加する人もみな、刺激の強いタバコやコーヒーをいったん我慢し、間食を控えお腹をすかして待っている。食事は仕事の前の「腹ごしらえ」ではない。それ自体が大切な 家族のイベント なのである。フランスは、仕事より家庭を重視する人々が多い。その家庭の中心が、家族で囲む食卓なのである。

日本人は世界平均をはるかに越えて仕事を重視する。残業は当たり前だ。でも、これは日本を離れると通用しない。仕事を重視する中国でも、定時になると奥さんから電話がかかってきて、仕事モードが家庭モードに切り替わることはよくあることだ。逆カエルコールだ。そして、これを基本的に尊重しないと、いろいろな問題のタネになる。家族を味方につけることも、中国の経営で大事なことなのだ。海外の会社では、残業なしで業務がまわるように組織を設計しなければならない。

ホフステードが最後に追加したIVR(放縦vs抑制)の軸は、その国の人々が結局幸せなのかどうかを調べたかったのだろう。その国の国民性自体を評価する尺度なのだ。フランスはこの軸で、日本より6ポイント高い。「食事とはお祭り」、暮らし方を日々少し変えるだけで幸せに近くなるのかもしれない。

私が日本文化を見直すきっかけとなったのがこの一言だ。

中国とのUAI(不確実性回避)軸の差を示す典型は、交差点だ。車が通らなくても信号を待つ日本に対して、中国の交差点はどこも無秩序の極みだ。ただ、まったく守らないわけではない。信号が黄色になると、タクシーの運転手は急いで渡ろうとはしない。きちんと止まる。信号の変化のタイミングが、人や自転車や車が飛び出してくる最も危険な瞬間であることを知っているからだ。中国人にルールを守らせたいのなら、守らなかったときに本人がどうなるかをよく分からせることだ。破ると自分に不利になるような制度のもとでは、そのルールは日本以上によく守られる。

UAI(不確実性回避)の数値が小さいことでは、英国も中国に引けを取らない。ほんとうに必要なルールは守るけれど、それ以外のルールが必要とは思っていないし守られるとは限らない。これに対してUAI指標が世界トップクラスの日本では日々刻々とルールが追加される。電車のなかで携帯電話で話すのを、いつ誰が禁止したのだろう。英国人は「なぜダメなの」と訊くし、上海の地下鉄車内で携帯で話すのはごく普通のことだ。大音響でお経を流す人までいる。でも、誰も文句を言わない。この広い中国、とにかく、いろんな人がいる。赤の他人と係わってもろくなことがない。そもそもルールどころか、言葉さえ通じないこともしばしばだ。不確実性は避けられない現実であり、回避するすべはない。むしろいろいろなサクセス・ストーリに自分も挑戦したい。彼らは日々こう思いながら暮らしているのだ。

人に迷惑をかけてはいけないというルールは中国にはない。迷惑という言葉自体が中国にはない。それは迷惑という観念がないことを意味し、説明に苦労する。友人のためにいろいろと便宜を図ることは、友情を大切にする中国では美徳だ。当たり前のことだし、迷惑をかけられたなどとは決して思わない。面倒だったかもしれないが、迷惑だったとは感じない。そう、面倒だったとしても、友人を非難するような情動は道徳的に抑制されているのだ。

「迷惑」を日常的に意識する文化を私は日本以外に知らない。和仏辞典で調べると、agacerが出てくるが、これは、「苦しめられる」ぐらいの状況で使う言葉だ。限度をはるかに越える迷惑は問題にしてもよいが、普段は我慢すべきものなのだ。和英辞典ではannoyになるが、これもフランス語のagacerと同様、毎日使うような言葉ではない。

「迷惑をかける」とか、「迷惑に感じる」とかは中国にはないが、「迷惑をかけない」ということを「人を怒らせない」ということと捉えれば中国にもある。面子だ。中国の面子という観念は、日本のものとはだいぶ違う。ずっと広いし深刻だ。人の面子をつぶせば、「信義にもとる」と社会的非難を浴びかねない。場合によっては、生活基盤を失いかねないほど深刻なのだ。

中国で「人の面子を大切にする」ということは、「その人の気持ちを害さないようにする」こととほぼ同義だ。これは簡単なようでとても難しい。夫婦間で難しく感じている方々も多いのではないか。相手がどんな地雷をどこに仕掛けているかなど、なかなか想像できるものではない。だから、これを社会一般のルールにするのには無理がある。相手限定ということになる。自分にとって大切な人々や社会的影響力のある人々、そうした人々の面子は尊重しなければならない。家族や上司、政府幹部などがこれにあたる。部下も状況によっては該当する。例えば、衆目環視のもとで部下を叱咤激励してはならない。それは部下の面子をつぶすことであり、会社を辞めろという意味に受け取られる。

中国社会で暮らすということは、まわりの人々を分類し、面子を立てるべき人々の気持ちを日々察しながら行動することなのである。これは、中国人にとっても精神的に疲れる話だ。これが上手な人は中国では尊敬されるし、昇進が早い。それに比べると、迷惑をかけなければ取り敢えず暮らしていける日本社会は、むしろ気が楽なのだ。人間関係に無頓着でもちゃんと生きて行ける。気楽とも言えるが、それで良いのだろうか?そんな疑問が残るのが日本社会でもあるのだ。この件は、後でもう一度考えてみたい。

中国の「面子」は会社経営の役に立つ。地方政府と共同で、テレビや新聞、インターネットなどを使って会社を宣伝する。すると、「あの家の息子は良い会社に入った」となる。そして、社員は気持ちがいいし、その面子と同時に会社への帰属意識も上り、よく仕事をしてくれる。

ただ、どんな社会規範でも表と裏がある。行き過ぎに注意しなければならない。

日々刻々とルールを強化する日本を、「日本には優れた一般の人々が大勢いて、いつだって一生懸命。日本は健全な社会だと実感します」と誉めてくれる外国人がいる。とても癒される。でも一方で、日本には内田樹氏が言うように「不自然なほどに態度の大きな人間」が実に多い。怒るとこわそうで偉そうな人々だ。彼らはそう振る舞うことで、自分に有利な空気を作る。議論の内容よりも「そんなことは百も承知よ」と言う雰囲気を作り、物事の判断基準が自分にあると周囲に認めさせる作戦なのだ。

むかし「地震、雷、火事、おやじ」と言われ、怒りっぽいおやじは日本で怖いものの一つだった。でも今や、家庭での権威は失墜し見る影もない。しかし、会社や社会で権威を与えると、元気を取り戻す怒りっぽいおやじがまだ多い。

「迷惑」も「空気」も「人を怒らせたくない」という私たちの素朴な心の上に作られた日本特有のフィクションなのだ。

一方、面子を大切にする中国では、不自然なほど自尊心が大きな人々がいて人々を困らせる。自尊心自体は世界共通だが、その扱い方は文化によって異なる。日本人の場合、自尊心は自制的なのが普通だ。それは周りに迷惑をかけてはならないと常日頃思っていることの裏返しだ。しかし、中国ではそのような歯止めがないから、自尊心は大きめが普通になる。そして、大き過ぎる自尊心でも周りから尊重されるから、ほうっておくと際限なく肥大化しうる。そうした人が日本よりも多い。そして、困る事態になると、「梯子を渡して少しずつ下りてもらう」のだという。こんなところにも文化の蓄積がある。

有能な社員の気持ちを大切にすること、会社に誇らしさを感じさせること、そうしたことが、中国では経営の重要課題である。反対に、「中国人社員をやめさせる方法はいくらでもある。例えば、面子をつぶせばよい」と中国の悪友に教えられた。善し悪しは別として面子は、中国社会で大切な観念なのである。

日本の「迷惑」も中国の「面子」も、「人を怒らせたくない」という東アジアの人々になぜか共通する強い感情に則して作られたルールなのだと思う。そう言えば、朝鮮文化の(ハン)も、怒りの感情を歴史を千年も遡ってふつふつとたぎらせるというから恐ろしい。もしかすると私たち東アジアの人々は沸点の低い人種なのかもしれない。仏教が伝わって2,000年も経つのに、「怒り」の情動を文化的にまだまだ上手に抑制しきれていない。いったいいつになったら私たちの社会は大人になるのだろう。

UAI(不確実性回避)指標が大きいことで有名なフランスでも、たしかに怒る人はいる。でも、そんな怒っている人に対して使える便利な常套句がある。それは、C’est pas grave!だ。「事態はそんなに深刻じゃないわ」の意味で、言外に「怒るようなことじゃないのよ」と匂わせる。何度も必要なだけ繰り返して使える。そう何度も言われると、「それもそうだ」と少し冷静になる。

「迷惑」も「面子」も「恨」も、条件が揃えば怒ってもよいというあぶないルールだ。百歩譲って怒りを許すとしても、それは、「今、現在、深刻なとき限定」にして欲しい。ちょっとした違和感とか、過去に遡ってとか、この国のためとか、地雷を踏まれたためとか、怒るネタを増やさないで欲しい。私たちお互いの幸せのために。「今、現在、深刻」でないのなら、感情を抜きにして冷静なときにお話しすれば良いのだから。

日本の国民性の最大の特徴は、MAS(男性らしさvs女性らしさ)とUAI(不確実性回避)の二つの軸で世界トップクラスに位置していることである。男女の役割や社会規範に対するこの二つの拘りは、ともに日本に経済的繁栄をもたらした。しかし、人々に幸福をもたらしたとは言えない。海外で仕事をするとき、最も邪魔をするのは、相手国の文化の問題ではない。長期に根強く残る問題の背後には、世界基準で明らかに極端なレベルにある日本人のこの二つの拘りを疑ってみるとよい。そして、これは海外に限らないのである。このことについては、あとでまたもう少しふれよう。

人間性

ホフステードの研究成果は、世界の国々の文化的価値観の違いがどの辺りにあるかを6次元空間にプロットして明らかにしたが、人々の行動の背景にある心の動きを科学的に明らかにしたわけではない。

世界の人々に共通する心の動き、つまり人間性とは何かが明確になってきたのは、21世紀に入ってからのことだ。そしてこの飛躍的な進歩を支えた人々の多くは私たちと同年代の哲学者くずれだ。頭のなかで堂々巡りしがちな哲学では、人間とは何かに正確に答えられない。そのため、人の心を科学的に研究する心理学や、ゴリラやチンパンジーの心を研究する進化生物学に、この人々はずっと答えを求め続けてきたのである。

ロビン・ダンバーは霊長類を研究し、そのムレの大きさが、脳の新皮質比と比例することを見いだした。そして、脳拡大の究極要因は集団サイズ拡大だとする社会脳仮説を提唱した。大きな集団の方が、生き残る確率が大きくなる。その大きな集団を維持するには、人間関係が安定していた方が有利だ。そして人間関係を安定化するには、脳へのいろいろな機能追加が有効だった。その結果、脳は段々大きくなった と。

この理論は、二つのことを言っている。数億年にわたる進化の歴史の大部分を共有するヒトと霊長類は、脳の多くの機能を共有している。そして、その蓄積の上で数100万年の時間をかけて、いくつかの固有の機能がヒトに加わったと。

『しあわせ仮説』を著したジョナサン・ハイトは、このことを「心とは、象にのる象使いである」と表現している。「人は合理的な動物ではなく、感情的な動物の上に”小さな理性“が乗っているだけの動物だ」とも。

人間の道徳観は、カントが言うような理性ではなく、この感情的な動物の部分に存在し、その多くは霊長類と共通している。そう今では考えられている。ハイトによると、道徳がらみの情動は非常に多く、文化を越えて共有されている。そしてそれらを相関関係で括ると以下の5種になる:

  1. 傷つけないこと 他人に苦痛を感じさせたくない。共感、思いやり
  2. 公平・互恵   そんなのずるいよと言う感覚、公平さを好む感覚
  3. 内集団への忠誠 自分の属する集団の義務遂行を大切に思う
  4. 権威への敬意 社会秩序のために上下関係などを尊重
  5. 神聖さ・純粋さ 肉体的・精神的な純潔を求める

最初の4つは、直感的に理解できる。最後の「神聖さ」は、その逆が「嫌悪」 だと知れば理解されるだろう。そしてこれら5種の感情が、どれも集団を強くすること、大きくすることに係わっていることも理解しやすいだろう。神聖さと集団の関係は少し分かりにくいかもしれない。しかし、文化の違いに嫌悪感を感じる時があることを思い出してほしい。他集団に対して嫌悪感を感じることが、自分の属する集団を守るために、進化論的な時間軸を通して有効だったのだ。

これら5種の道徳がらみの情動は、その多くが人どころか霊長類にも共通に見られるのである。それでは、この道徳基盤の上にのった新たな機能「小さな理性」とは、いったい何なのだろう。

それは、「強化された心の理論=省察力」だとダンバーは考えている。言語もその延長上に発達した と。

自分の心を省み、他者の感情や信念にも考えを巡らせる能力(=心の理論)は、サルや鳥類にも見られるが、これを再帰的にできるのは、チンパンジーとヒトだけだ。しかもヒトは成人になると、この能力がチンパンジーよりもはるかに発達する。例えば、以下のようにだ:

「私は彼女が好きだ」(1回):サルや鳥類でも
「彼女は私が好きだ」(2回):チンパンジーとヒトの4~5歳児
「彼は私が彼を好きだと勘違いしている」(3回):成人。この文の意味を理解できなければ成人とは言えない。
「彼女が僕を好きだと僕が勘違いしていると彼女が思っているが、これは僕の作戦だ」(4回):段々人間的になる。

ほとんどの成人は、5回まで再帰的に考えられる。この「強化された心の理論=省察力」で、成人は目に見えないものに気づき、考え、その結果で行動を選択できるのだ。

国民性における東アジアの特徴

このすべての成人に共通する小さな理性と5種類の道徳感情を使うと、価値観の異なる人々が私たちとどう違っているのかをより正確に理解できる。

中国の国民性で当初理解に苦しむものとして、PDI(権力の格差)の大きさがある。日本はこの指標で54と中程度なのに対して、中国はこの指標が80ととても大きい。それは以下を意味している:

  • 力は正義に勝り、権力を握るものは常に正しく善良
  • 不平等は一貫していないと問題だ

例えば、権力を持てば持つほど、富を持つのは当然で、逆に持っていないのはおかしい、隠しているにきまっている。

そう考える中国では汚職が汚職を呼び、その額が桁違いなる。この指標の正しさは毎日のニュースを見れば明らかなのだ。そして、公平さを好む感覚が中国人には欠如しているのではないか といぶかしく思うのである。

PDI(権力の格差)の大きさは、私たちが生来持っている「不公平」という強い情動がないことを意味しない。それは、逆に、この「不公平」という強い情動を抑える何かをその文化が持っているということを意味するのである。同じ仕事なのに待遇に差があると強く「不公平」と感じるが、「差をつける基準」が明確であれば情動は抑制され、人間性としては不平等でも文化的には道徳的となる。努力すれば、差別される側から差別する側に移れるかもしれないという訳だ。こうした差をつける基準を考えることが中国人は好きだし得意だ。評価基準が明確になれば、人々はそれぞれに対策を考え、よく働くのである。不公平な社会であるからこそ、公平とは何かに人々は拘っているのである。

PDI(権力の格差)の大きな文化は、ユーラシア中央部に広く分布している。中国、ロシア、インド、アラブ諸国などが代表例だ。エマニュエル・トッドは、「共同体家族」という家族類型が、長い時間をかけてユーラシア全体に伝播したと考えている。権力の格差は、このユーラシアで優勢な共同体家族を基本とする国々で大きい。

日本や欧州はユーラシアの辺境に位置していたので、この伝播の範囲外となった。そして、辺境には、人類の原初的な家族類型が変わらずに残ったと言う。日本や欧州には、狩猟採集民だったころの比較的平等な社会の痕跡がまだ残っているのだろう。

大きな「権力の格差」は「男性らしさ」と同様、公平さを強く好む人間性と矛盾している文化的価値観だ。「不公平」だという情動とバランスさせる強力な何かがないと、そしてそれが人々を納得させるものでないと、社会の不安定要因となる。中国が「一つの中国」に拘るのはこれも一つの要因だ。強大な権力で統一を維持しないと、中国はバラバラになって何百年という単位で相争い始める。そして、人口は激減する。権力の大きな格差は、まだましだ。そう信じられている。

東アジアの国々と日本との国民性で大きく異なるもう一つの軸は、IDV(個人主義vs集団主義)だ。日本のIDV指標は46で世界平均の44とほぼ同じだ。PDI同様に、ここでも日本は世界の中庸にいるのだが、中国・韓国・台湾をはじめとするアジア諸国の平均は20でずっと低く、集団主義的だ。個人主義的な欧米の国々のIDVは高く、北西欧の平均は61だ。日本はその中間に位置している。

集団主義文化の人々は、自己について語るときWeを使いがちだ。家族の立場からものを考えるように育っている。彼らは家族という集団に生まれながらに属していて、この集団に忠誠を誓う限り生涯 安全を保証されると考えている。家族は、普通核家族ではなくもっと大きな単位だ。そして、もちろん、大人になれば集団のために働くし、老いた人々の面倒をみる。大人たちは、そうした集団の中での明確な役割と義務感を持っている。子どもたちはそうした大人たちを模範として成長し、集団主義的な価値観を持つことになる。この文化では、家族内での義務遂行や上下関係が尊重される。

個人主義文化の人々は、早くから自立するように育っていて、自己について語るときIを使うWeはまず使わない。親から自立している大人たちを模範として大人になり、自分も自立して家を離れていく。そして、老いた親の面倒をみることもない。家族内での義務遂行や上下関係の尊重よりも、人々の自由を大切にする文化なのである。

日本はこの辺りがはっきりしない。子どもを自立させたいのか、ずっと一緒に暮らしたいのか。

米国のナショナルジオグラフィック協会がIBMなどと共同で始めたGenographic projectは、世界中の人々に対して、彼らの祖先に関する情報を遺伝子解析により提供してくれる。$250かかるこのサービスによると、土佐藩の士族の血を引く私の母の母系祖先の2%は、なんとアメリカ原住民だ言う。アメリカ原住民も2万年前にはアジアにいて、祖先が私と共通だったのだ。実際、同じ遺伝子変異を持つ人々が、チリ、メキシコ、ペルーなどに実際生活していて、ネットを通じてメッセージを交換できる。同じ遺伝子変異を私と共有する人々が暮らすこれら南米3ヶ国のIDV平均は23で、アジア同様に非常に低く、とても集団主義的だ。

日本人も昔はもっとずっと集団主義的だったのだろう。家族のために吉原に売られていくなどとは、個人主義的になった現代日本では考えられない。しかし、昔は家族の立場で考える訓練がされていたから、このような悲哀が続いた。集団主義指標の強い国々では、社員は家族の考え方に強く影響されるし、いずれ老親や多くの家族の面倒をみる立場にある。社員の家族にとって、社員が働く場は人ごとではない。吉原の話は極端だが、普通のビジネスでも経営で家族を味方につけることは大切な事柄だ。

明治以降、日本人は、幼いころは親に倣って集団主義的文化を習得したが、自己が確立する青年期には、欧米の個人主義的な文化に憧れその洗礼を強く受ける。その結果、自立志向の強くない「個人主義者」に育つのだ。日本人は、個人主義か集団主義かは個人の主義主張の違いだと勘違いしているが、それは、大人になって自立するか、家族の一員として働くかが究極的な違いなのである。個人の考え方は環境(立場)に大きく影響される。個人主義か集団主義かは、その典型例だ。引きこもりや、いわゆるパラサイト・シングルが日本に多いのは、この自立を学ばない幼少期と個人の自由に憧れる青年期の矛盾した文化的環境のなせるわざなのではないか。少なくとも、自立志向の強い普通の個人主義者が育つようには日本文化はできていないのだ。

そのように自立志向の強い個人主義者が育つような社会が理想なのかというと、よく分からない。私たちは、さまざまな苦労をして子どもを育て、育ってしまうと巣立ってしまい、寂しさを感じる。それが人生なのかもしれない。でも、私たちはこのような状況にあまり慣れていない。何百万年も集団主義で生きて来た私たちの文化には、この寂しさを乗り越える智慧がまだ十分には蓄積されていないのだ。どう対処すればよいか、私たち自身で考えなければならないのだ。

ホフステードの第5の軸であるLTO(長期志向vs短期志向)では、日本は東アジアの国々と同様に、世界的に見て極端に長期志向だ。それは、人々の心の重点が将来に向かう性向が極めて強いことを意味する。ドイツのようにヨーロッパでもこの指標が大きい国もあるが、私たち東アジアの国々ほどではない。そしてこの性向は、私たちの幸せ度を損なう一因でもある。実際、明日のことにまで、しなくてもよい心配をすれば、幸せは遠ざかる。もしかすると、これが私たちの沸点を下げている主因なのかもしれない。先々を心配する心が、私たちを不安定にする。東アジアでは、日々、心配なしには過ごせない性分が心の標準なのだ。

先のことに思いを馳せるのは一概に悪いことではない。心配するからこそ人々はよく働く。ホフステードが文化的価値観の5番目にこの軸を追加したのは、東アジアの経済発展とこの価値観が強い相関を示していたことに着目したからだ。そして、この尺度は宗教が関係していると彼は考えている。

ヒトと言う動物が大きな安定した社会集団を作るため獲得した小さな理性は、アレコレ考え過ぎていろいろな問題を引き起こすという悪い癖がある。これが、社会集団として見たときの小さな理性のデメリットだ。だから、宗教なり文化なりでこれを適切に抑制することは理に適っている。

毎週、修禅寺に通って仏教講話を聞いてくる妻によると、108あるという煩悩は、実は一つであり、それは怒りだという。そう言えばそうかもしれない。怒りは、キリスト教でも七つの大罪の一つだ。社会の中に生じがちな怒りの情動は、集団内のトラブルの主な原因であり、人々はこれを宗教によって抑えようとしたのだ。しかし、宗教の専売特許というわけではない。フランス語の常套句”C’est pas grave!” 「事態はそんなに深刻じゃないわ」がそうだったように、日常的な緊張局面を文化的努力でほぐすこともできる。そう言えば、フランス語のもう一つの常套句”C’est la vie.”「人生ってそんなものよ」も、自らに降りかかった不幸な出来事に、つい大袈裟になりがちな私たちの心に歯止めをかけてくれる。いわば、心の暴走に対する文化的な防壁なのだ。

小さな理性の暴走を防いで集団を安定化させるのが信仰の一つの役割なのかもしれない。そうだとすると、LTOの極端に大きな東アジアでは、信仰が効果的になされていないということになる。実際、私たち東アジアの仏教の教義は奥深く難解だ。悟りを開かないと究極の幸せは得られないと思っている。人々は煩悩からなかなか抜け出せない。アッラーのように、ブッダも「明日のことを考えるときには必ずコレコレを唱えなさい」とかの具体的な指針を与えるべきだったのかもしれない。教義を説く宗教者がまだまだ怠慢なのかもしれない。あるいは、イスラムやクリスチャンが毎日ないし毎週宗教活動に従事しているのに対して、私たちは忙しさにかまけて、年に幾度かしか仏に向き合わない。このことが問題なのかもしれない。昭和初期から始まったラジオ体操の番組は、体操を日課とする文化を日本にもたらした。これで我々は健康になったが、今は、心の健康も大切だ。だから、禅のエッセンスである「マインドフルネス」を、ラジオ体操のように毎朝放送するのが良いのかもしれない。毎朝の星占いもいいけどれど、健康のためには日々の心の体操も必要だ。

私にブッダを非難する気はさらさらない。神様は、東洋では私たち同様に象に乗っているが、西洋では象から離れ唯一の神として天高く君臨している。そして、私たちの小さな理性の使い方を強く制限し、そうすることで私たちに幸せをもたらす。でも、同時にその一神教の原理主義は今も戦争をもたらし続けている。

母系遺伝子変異を私と共有する南米の国々のLTO(長期志向vs短期志向)は27と日本よりもはるかに低い。IVR(放縦vs抑制)は測定値がない国もあるので正確には言えないが、中南米は、世界で見ると北・西欧、南欧の次にIVRが高い地域である。つまり、人々は日々幸せを感じて暮らしている。彼らは数百年前スペイン人に征服され、土着宗教の一部を残しながらキリスト教に改宗した。過酷なスペイン人統治のもと、宗教に強くすがったのだろう。現在、人口の93%がキリスト教徒である。宗教心が強いと、人々の心の重点は過去の伝統と現在に向かい、将来にはあまり向かわない。このことがLTOを平均13と世界一低くし、する必要のない心配事から守っている。

逆に、ソ連の影響下にあったロシアや東欧の旧共産圏の国々は、LTOは平均63と高く、IVR(放縦vs抑制)が非常に低い。世界平均45のIVR(放縦vs抑制)指標は、これらの国々ではなんと平均23だ。それは、人々の暮らしが自分の思うようにならないと感じていることを示す。ソ連崩壊による経済的な困難が一因でもあるのだろうが、共産主義が長く反宗教的だったことも大きく影響しているのだろう。

宗教活動なり、C’est pas grave!とかの常套句の活用なりで、日々の煩悩や怒りを少なくすることができるし、それにより幸せ度が高まる。宗教を信じるか信じないかは人々の自由だ。しかし、幸せのためには、小さな理性が余計な心配をしないようにする何らかの強い精神的枠組みが私たちの日々の生活に必要なのだ。この枠組みが東アジアでは弱く、人々はあくせく仕事をするわりには、幸せが遠い。人間は頭で思っているほどには強くないのだ。

すべての人々に普遍的な情動は、人間性の主要な要素だ。そして、この普遍的な情動を基盤にしながら、私たちが自らが属する集団を組織化するために共同で作りあげてきたのが文化的価値観なのである。それは、集団の中に生起する相反する情動を抑える智慧あるいは妥協――言い換えれば小さな理性の使い方に関するガイドラインの体系なのである。

異文化を理解するということは、

  • 特定の状況で人々に生起する(世界のすべての人々が共有する)情動と、
  • それに対応する文化的ガイドラインに照らして理性が行う判断、その結果としての行動に、
  • 自分でも納得し、共感し、必要であれば自分もそのように行動すること

なのである。

異文化対応力(Cultural Intelligence)

異文化理解の基本的な原理は説明した。でも、文化の違いは実にさまざまだ。それらモロモロを習得するにはどうしたらよいのだろう。

文化的知性とも翻訳されるCultural Intelligenceは、社会心理学者クリス・アーリー等により、2004年にハーバード・ビジネス・レビュー上に発表された。多種多様な文化の違いを学ぶ能力を、人間はみな生まれながらに持っている。具体的にはコレコレだとこの理論は主張する。

学びとることができるのは、考えてみれば当たり前だ。私たちは日本文化を子どもの頃にすでに学びとっているのだから。問題は、コレコレとは何々で、文化を二つ以上学びにくくしている仕組みが何なのかだ。

学びにくくしている仕組み、その入口は、異文化に接していて時折感じる違和感だ。この違和感は放置すると繰り返されて嫌悪感に変わる。異文化接触を夫婦関係に置き換えると、あなたにも心当たりがありはしないだろうか。先にふれたように、日本には、男女間で価値観に比較的大きな段差があって、注意しないと躓いてしまう。

日本文化の「男性らしさ」の極端な大きさは、不公平という強い人間的な情動と常に闘うことになる。社会が豊かになればなるほど、なぜ不公平が許されるのかと感情的になり、見直される運命なのだ。日本では、男女はむしろ異文化と割り切って、きちんと対策を打つべきなのだ。

異文化を学ぶには、まず違和感に気づき、その違和感が嫌悪感に変る前に好奇心に切り替えることだ。そして少し寛容になって違いを楽しむことだ。まず気づき、次に相手が自分やその時の状況をどう捉えているのかなどよく省察する。そして、今までの自分の行動スタイルを勇気を少し出してちょっと変えてみる。その結果、効果があったかどうか観察し、効果がなければ、またよく考えて行動を修正する。これを毎日繰り返すのだ。

子どもにとって文化の習得は、大人になりたいという強い憧れと親のしつこい毎日の躾けが原動力となっている。これに対して、大人にとっての新しい文化の習得は、自分自身を日々変えていくことを意味し、ダイエットや禁煙と同様に、継続するのが実はとても難しい。

だから、「気づき」や「省察力」というメタ認知のほかに、動機を明確にして継続してやる気を出すことや、行動を慎重に変える小さな勇気、そして相手文化に関する知識の蓄積が必要になる。これら4つ能力を使って改善サイクルを回し続けることになる。これが、コレコレの概要だ。

私たちは幼い頃、周囲の大人たちの行動を鵜呑みにしてきた。そしてそれが変わらないように、念のために嫌悪感で封印した。しかし、時代の進歩に合わせて、経済的な豊かさだけでなく幸せも大切だと思うなら、この封印を少し解いて中身を少し書き換えれば良いのだ。

生まれ持った文化的価値観は、いわばスマホの設定の省略値だ。自分の好みに合わないときは、カストマイズすれば良い。ここでは、その方法をお話しした。

幸せに近づくための心のカストマイズ

私たちの遺伝子は、数百万年という進化の歴史を通して、狩猟採集民の生活に最適化されている。それは、複数の家族が連携する集団主義的で、比較的平等な社会だったと考えられている。そして、つい一万年前から始まった文明は、「より多くの人間が生き延びていけるようにしたが、その一方で疫病を引き起こし、男女間や社会的な階級間に不平等を生み、強権的な支配者による専制という害悪をもたらした」。その中で、人々は、幸せを求めてさまざまな工夫をしてきた。

フランス人と中国人は、それぞれ2,000年前のローマ帝国と漢帝国の末裔だ。一方は多様性を尊重する個人主義と信仰を軸として、他方は中央集権を維持する権力を軸として発展してきた。

フランス文化は、男女の愛を第一優先にする社会とはどんなものか、家庭を大切にするには具体的にどうすれば良いのか。そうしたことを教えてくれる。

権力と富に非常に大きな格差のある中国では、厳しい生活のなかでも幸せに生きるためには何が最低限必要なのかを教えてくれる。それは、家族の強い絆であり、友情の大切さだ。そして、周囲の人々の気持ちを日々察しながら生きることが暮らしの大原則なのだ。

「野生の思考は日本にこそ生きている」と言われる。狩猟採集民の比較的平等で集団主義的な価値観が日本文化の基層に残っている。そして、一万年以上も続いた縄文の部族社会以来の伝統が、神風に守られて分厚い地層をなしていた。そしてそこに、唯一、戦後憲法が自由平等という楔を打ち込んだ。

私たちは、敗戦によって自由と個人主義を日本なりに受け入れたが、欧米的な自立と信仰の精神は選択しなかった。日本は復興し経済的に繁栄したが、人々の幸せという視点では世界で中程度のレベルだ。戦後の繁栄はいったい何のためだったのかと問われると、はっきりと答えられない。私たちは何を忘れてきたのか。

戦後日本の社会では、末期ガン患者が、「家族に迷惑をかけたくない」と変なことを言う。「迷惑」という嫌悪を伴う観念が、最も大切な人間関係である家族の中に普通に入り込んでいる。「面倒をかけたくない」ならまだ分かるが、家族とはお互いに面倒をかけ合うものなのだ。助け合うことが幸せの源泉であり、そう生きていくのが家族なのだ。「迷惑をかけなければ何をするのも自由だ」なんてことはない。人生とはそんな気楽なものではない。家族を悲しませてもいけないし、怒らせてもいけない。面倒を迷惑どころか面倒とも思わずに助け合うのが家族なのである。「迷惑をかけない」というルールは、家族のような濃い人間関係には相応しくない。もっと希薄な人間関係でのルールなのだろう。義理人情は古いと言われるかもしれない。でも、私たち人間は、何百万年もそうした家族の中で生きてきた動物なのである。家族を離れては幸せになれない。私たちの遺伝子はそのように進化してきている。

現代の日本は、人々の同質性が極めて高く、違和感を感じたら取り敢えず「迷惑だ」と誰でも怒れる比較的平等な社会だ。そして、役割や社会規範という文化的制約が生活のさまざまなところにまで浸透している。これは社会を効率的にする。しかし、社会秩序や効率化のために、「嫌悪」や「怒り」や「・・・べき」を優先すると、人々の幸せは遠のいてしまう。

最近はやりのアドラー心理学は、アドラーの育ったオーストリアの国民性がベースとなっている。そのオーストリアは、文化的価値観では比較的日本に近い国である。そして、近いにも係わらず幸せ度(IVR指標)で日本より21ポイント(50%)も高い。これが意味するのは、日本の国民性と幸せは実はそう遠くないということなのかもしれない。

人々が幸せになるためには何が大切なのか。それをアドラーはGive & Giveだという。

愛と家庭、家族の絆、友情。そうしたGive & Giveを基本とする人間関係をまず大切にすることだ。間違ってもGive & Takeの関係と取り違えたり、「嫌悪」や「怒り」の感情をこの大切な人間関係に持ち込まないことだ。このちょっとした努力が私たちに足りていなかっただけなのかもしれない。

そして次に、家族の外へも広げていくことだ。嫌悪や怒りの感情に気づいたら、そこに自分の悪い癖があるのかも知れないと疑ってみることだ。肩を怒らせずに、C’est pas grave!「事態はそんなに深刻じゃないんだから」くらいののりで。そして、私たちが幼い頃、無批判に身につけて心の中に今も沈殿している時代遅れの文化的価値観を、異文化対応力を使って、日々の暮らしの折々に少しずつ慎重に見直していくことだ。「嫌悪」を好奇心に変え、「怒り」そして「・・・べき」を取り敢えず横において、地雷を埋めた理由をもう一度よく思い出し、取り越し苦労はほどほどにし、自分と周りの人々の幸せを第一にし、冷静さを取り戻して、少しずつそして慎重に、自分の心を今の自分の好みに合わせてカストマイズしていくことだ。

(おわり)

演習問題

  1. 家族や友人にたのまれてやったこと、やらなかったこと、面倒と感じたこと、あるいは、自分の役割ではないと感じたこと、そうしたことを思い出し、相手になりきって自分を見つめ直してみよう。そして、より良き家族、より良き友人になるために、自分の役割を少し拡大するのも良い作戦なのかもしれない。そして,小さな勇気を出して、今度は自発的にそれをやってみる。そして、それを習慣にして、ライフスタイルを変えていく。
  2. 友人と一緒にゴルフコースをまわって、前の組が遅いと感じたら、いらいらせずに好奇心をいだこう。遅い人も速い人も、いろいろな人たちがプレーする。ゴルフ人口の裾野が広がっていくことは良いことかもしれない。せっかくの余暇、自分をどう変えれば楽しめるか、よく考えてみる。楽しむために、まず笑顔を作るのがよいのかもしれない。
  3. 電車で、若い人が席を譲ってくれなかったときは、日本の文化が少しずつ変化しているのかもしれないと考えてみる。他人の文化は変えられないし、文化に関しては必ず若い人が正しい。30年後、生き残るのは彼らの文化だ。そして、坐るためには、次回はどうすれば良いかを考えてみる。最近はいろいろな路線がある。選択肢が多い。乗車駅とか、乗る時間とか、使う路線とか。グリーン車や指定席を増やす方が、社会としてはより良い選択なのかもしれない。

PDF版: http://mkitaoka.biz/dl/toyama43kinenshi_mkitaoka.pdf